祝!『プリンセスチュチュ』Blu-rayBOX発売!!

 

あ、間違えた!

 

祝!『三人の名探偵のための事件』、ついに弊社より文庫化!!

 

これまでご紹介してまいりましたレオ・ブルース

既刊の『ミンコット荘に死す』『ハイキャッスル屋敷の死』は、東京創元社さんの『死の扉』に続く、名探偵キャロラス・ディーンものでした。

 

今回、上梓いたしましたのは、ビーフ巡査部長が登場する初期シリーズの第一弾。すなわち、多岐にわたる著作活動を行ったレオ・ブルースの手がけたミステリーの第一作です。

ちなみに、1998年に新樹社さんより発刊されていた単行本の文庫化でございます。

当時、『このミステリーがすごい!』で、海外編第4位を獲得(本ミスじゃなくて、このミスですよ!)。本格物としては、異例の高評価を集めました。

いやあ、編集者の感覚でいえば、ついこの間出たような気分だったりもするのですが、もうあれから20年近く経ってるんですね・・・そりゃあこっちの加齢臭もきつくなるわけです・・・。

もはや、世代的に親本の存在を知らないミステリー・ファンの皆様もいらっしゃるやも、ということで、翻訳者の小林晋さんとも相談のうえ、こうやって復刊させていただいた次第です。

  三人の名探偵のための事件がJpegブログ画像.jpg   (可愛い装丁と評判です!)

 ■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 

 

改めて、申し上げておきます。

『三人の名探偵のための事件』は、単にレオ・ブルースの本格ミステリーデビュー作であるのみならず、1930年代の本格黄金期に書かれた本格ミステリーの代表的作品でもあります。

その価値は、クリスティやカー、クロフツ、クイーン、ヴァン・ダインといった著名作家の名作群に劣るものではなく、本格ファンなら、ぜひ手許に1冊常備したい歴史的傑作だ、といっても過言ではないでしょう。

場所は、典型的なカントリーハウス。

お題は、密室殺人。

そして、名だたる名探偵三人(別名で出てきますが、読み始めれば、すぐに「ああ、あの探偵かw」と分かります)による、華麗な推理合戦。

 

ね、面白そうでしょ!?

まあ、読んでみてください。

ぶっちゃけ、期待以上です。そこは自信をもっておすすめします!

 

まだ、本格ミステリーの沃野が荒らし尽されていなかった(いまだアイディアとトリックに手付かずの領域が多々あった)時期の、おおらかで稚気に富んだ作風は、「これぞ本物」と思わず唸ってしまうような、パズラーならではの醍醐味を読者に与えてくれます。

とにかく、ぜひ手にとっていただき、「本物の本格の面白さ」をぞんぶんに満喫していただければ、と思います。

そして、合わせて巻末の真田啓介さんによる至高の解説を読めば、レオ・ブルースという作家の重要性と、その寄って立つ作家性、本作の位置づけが手に取るようにわかるかと。

 

あと、今回、小林さんが頑張って、旧訳全体にかなり手を入れられました! 不肖わたくしめも含め、数人がかりで原文に立ち戻って詳細に検討のうえ、結構な部分をいじってあります。

というわけで、旧版の単行本をお持ちの方も、このさい、ぜひご購入いただければ幸いです!

 

お楽しみに!(編集Y)

 

 

 

 

2017年9月 9日 23:22 | | コメント(0)

まず最初に。
本作の主人公ジャック・カートランドは、竹書房さんの〈シグマ・フォース〉シリーズ『ギルドの系譜』にも、ちょい役ではありますが、登場しております。
〈シグマ・フォース〉シリーズを愛読されている皆様! ぜひ、こちらにも手を伸ばしていただければ幸いです!

 

ロリンズは、弊社でご紹介してきたノンシリーズの作品群において、極地、地底世界、アマゾンの密林など、毎回デイヴィッド・アッテンボローばりのフットワークの軽さで、厳しい自然の限界状況――いわゆる「秘境」での探検・冒険劇を扱ってきました。

 

今回の舞台は、深海。
まさに、ザ・秘境オブ秘境ですね。

日本でも、邦人研究者によるダイオウイカ撮影成功というビッグニュース以降、テレビの特別番組や、科学博物館での「深海」展、「へんないきもの」本などを通じて、一般の人びとのあいだで急速に深海への関心が高まっているかのように思えます。

 

  ディープ上小ブログ.jpg

 

■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 

あらすじはこんな感じです。

 

新世紀最初の日食。世界中の人びとが黒い太陽から放たれるフレアに見とれていたそのとき、巨大地震が太平洋全域を襲う。

中部太平洋で沈没船調査をしていたジャックのもとには米海軍からの救援要請が届いた。

米大統領を乗せたエアフォース・ワンが太平洋上空で姿を消したのだ。軍に遺恨のあるジャックは渋りながらも捜索に乗り出す。一方そのころ人類学者のカレンは、与那国島沖に沈むという〈ドラゴン〉と呼ばれる遺跡に向かっていた。そこで彼女は地震で隆起した古代都市を目にして......。

 

本作は、太平洋沿岸域での巨大地震勃発から話が始まりますが、本書が本国で刊行されたのは2000年でして、2011年より10年以上も前に書かれた物語なんですね。

前半、ヒーローとヒロインは、それぞれ別の場所で調査にあたります。
一つは、〈バミューダ・トライアングル〉から見て地球の裏側にあたる〈ドラゴン・トライアングル〉海域で、大統領専用機エアフォース・ワンが墜落、その捜索にジャック船長率いる海洋探索船〈ディープ・ファゾム〉が駆り出されるという流れ。
もう一つは、海底地震の影響で突如、与那国島沖に浮上した古代遺跡を、女性人類学者カレンが友人の日本人コンピュータ研究者ミユキと極秘調査する流れ。

 

やがて、〈ドラゴン・トライアングル〉の海底にそびえ立つ謎の巨大石柱と、与那国島の遺跡の双方から、共通の古代文字が発見されるに至って、いよいよ二つのチームは合流することに。ここから、ロリンズ印の大冒険活劇が、今回も加速していきます。

 

あとはまあ、とにかく読んで下さい。
いやー、やっぱりめちゃくちゃ面白いですよ、ロリンズ。

 

大地震、深海探検、巨大生物、未知の遺跡、超古代文字(わかる)、
→ 天変地異、核戦争勃発(えっ?)
→ 地球滅亡の危機(えっ?ええっ?)。

 

ロリンズらしい大風呂敷の広げ方は相変わらずですが、今回は、けっこうマジで大変なカタストロフィに発展。いつものように主人公が水際で何とかするのかと思いきや、なんだかどんどんひどい感じで事態が悪化していきます。
おいおい、どうするのこれ??
さすがにこの風呂敷閉じるのはロリンズにしても難しいんじゃ?
......と思わせておいての、まさかの大ネタ炸裂! 
個人的には、思い切りしてやられました。うわああ、そうきたか、と。

 

巨匠ロリンズが魅せるストーリーテリングの妙。
ぜひご堪能ください!!

 

---

 

なお、本書で登場する与那国島海底地形は、1986年に発見された実在する有名なスポットで、ダイビングのメッカとしても知られています。現在でも人工遺物なのか、それとも自然地形なのかという論争が続いており、そのうち海底遺跡説を唱えている代表的研究者が、1992年から実地調査にあたった、琉球大学理学部教授(当時、現名誉教授)の木村政昭さん(海洋地質学、地震学)です。
本書の78頁でも、

 

〈沖縄のドラゴン〉は一九九一年、琉球大学の地質学教授、マサアキ・キムラによって、与那国島沖合で発見された一対の水中ピラミッドである。キムラ教授はこのピラミッドを、中央アメリカ、古代マヤ遺跡で発見されたものと比較している。

 

という形でしっかり記述されています。ちなみに今回、文庫の装丁には実際の与那国海底地形の写真を使用してみました。なかなか雰囲気が出ているのではないでしょうか。


弊社では、もう1冊(最後の1冊ですが)、ロリンズのノンシリーズ作品『Excavation』の版権を獲得しております。

こちらも(出し惜しみせず)来年くらいにお届けできれば、と考えておりますので、よろしくお願いいたします。(編集Y) 

2017年7月31日 16:15 | | コメント(0)

またまた更新が大幅に遅れてすみません・・・(まあ別にいつするとは決めてないのですが)。

いくらこちらから頼んでも、担当編集が面倒くさがってブログを書いてくれず・・・でも、自分もスワガー・サーガ特設サイトの記事で、さんざんアップを遅延させて宣伝部に怒られてるので、ぜんぜん人のことがいえない・・・。

以下、編集実務をお願いした元同僚I氏による紹介をお楽しみください!

 

6月の新刊、クライブ・カッスラー&ジャスティン・スコットの『大諜報』(上・下)、もう読んでもらえましたか? 探偵アイザック・ベルの活躍を描く活劇シリーズの第3弾の登場です!

大諜報ブログ小.jpg

 

■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 


20世紀初頭を舞台にする本シリーズ。
一種の〈時代小説〉で、海洋冒険小説作家クライブ・カッスラーからすれば異色と言ってもいいシリーズですが、本国では毎年新作が発表される人気シリーズとなっています(これまでにすでに10作)。
粋なスーツと帽子、優美なロングドレスとカクテルの世界を、カッスラー印の高速マシンが走り抜ける......同時代のフランスの作曲家にならって言えば、この「優雅で機敏なフォックストロット」とでも形容すべき趣向こそ本シリーズの魅力です。

さて、フォックストロットと言えば(って、こちらで勝手に言っただけですが)、本作にはみなさんご存じの伝説的ダンサーがカメオ出演しています。
『大諜報』(原題:The Spy)というタイトルにふさわしい息詰まる諜報戦と追跡劇の合間に挟まれる素敵な間奏曲です。
どうかお楽しみのほど。


〈あらすじ〉
1908年3月。ワシントン海軍工廠で大砲開発の伝説的技術者ラングナーが爆死した。現場には遺書が残されており、当局は自殺と断定。デスクからは賄賂と思われる札束も発見された。ラングナーの美貌の娘ドロシーはこれに納得できず〈ヴァン・ドーン探偵社〉に調査を依頼、エース探偵ベルが動き出す。ワシントン、ニューヨーク、カムデン、フィラデルフィア......東海岸を縦横に駆けめぐり捜査を進めるベルの前に、やがて弩級戦艦開発をめぐる謀略が姿を現す。そしてベルの身に危険が迫る!
ラングナーとそれに続く人間の死の背後にちらつく謀略の影。そしてベルを狙うギャング。いったい弩級戦艦開発競争の裏側で何が企てられているのか? 日本、イギリス、フランス、ドイツの曲者たちときわどく渡り合いながら、ベルはその影を追ってサンフランシスコへ。一連の事件の糸を引く〈スパイ〉の正体へと肉薄する!

 

 

 

 

2017年6月28日 15:24 | | コメント(0)

★今回の記事では、作品の結末について言及しています。未読の方はくれぐれも閲覧をご遠慮いただき、必ず『拾った女』を読了してから目を通していただけると幸いです。

 

 

 


いよいよ、『拾った女』のラストについて。

こういうラストをもつ作品を担当するときいつも悩むのは、どこまで表紙まわりや事前宣伝で仕掛けの存在を明かしていいものか、ということでして。

そりゃあ、何も言わないのが、本当は一番なのです。

たとえ何も言わなくても、そういうことをよくやる作家だと周知されているだけで、もう警戒されてしまうくらいなんだから。もう、言わぬが花。沈黙は金。

読者だって、何も知らないほうがいいにきまってる。

でも一方で、そこが作品の大きな売りの一つなわけですから、送り出す側としては、何かしら触れないわけにもいかない。

今回の帯で若島正先生にいただいた推薦文は、そのあたりを読者の方にある程度「忖度」してもらえる、ギリギリのラインをうまく攻めて下さっていたのではないかと。

 

本書のラストに仕掛けられているフィニッシング・ストロークは、現代日本のミステリー・シーンにおいては、もはや古めかしいものかもしれません。

ただ、こういう仕掛けを成功させるために大切なのは、読者の虚を突くこと、予見させないこと、ジャンルを偽ることであるとするなら、本書は実にうまいスタンスで書かれた小説ではないかと思います。
そういうことをやる小説ではない、ノワールだ(もしくは恋愛譚だ)と思って読んでいた多くの皆様は、明後日の方向からぶっ飛ばされたような衝撃を存分に体験できたのではないでしょうか。

 

★類似作の存在

 

出版する前、実は編集者はまったく異なる予想を立てていました。

出した瞬間、四方八方から、「あの『××』とおんなじトリックじゃねえか!」と責め立てられるのではないかと思い込んでいたのです。

『××』とは、連載第一回の同時代リストにも名前のある作家による、かつて(少なくとも編集者が学生だった頃)は名作表やオールタイムベストにも結構載っていた某作品です。

しかも、小説としてノワールの体裁をとる点や、ラストで明かされる真相まで「まるで一緒」なので、さすがに突っ込まれても仕方ないのかな、と。

ただ、書かれた年は、『拾った女』のほうが2年も早く、影響関係は不明なまでも、こっちのほうが先行作であることはぜひ強調しておかないと、と思ったりしていました。

 

でも、蓋を開けてみれば、ネット書評やTwitterや読書メーターを見ても、ほとんどその件に関して言及されている方がいない。読書会にお邪魔した際も、どなたもご存じないとのこと(一名ご出席の某評論家先生を除く)。なんだか編集者が日々の本作りにかまけて時代に置いてきぼりにされているあいだに、あまり読まれない本になってしまっていたようなんですね。

まあ実際、いうほど面白い本じゃないんですけど、ぶっちゃけ(笑)。

 

むしろここで重要なのは、いま上で触れた某作品の著者が、そういう仕掛けばかり考えていた叙述トリック・プロパーのはしりみたいな作家であるのに対して、ウィルフォードのほうは、別段そればかりを狙っていた作家ではないということでしょう。

すなわち、本作はフィニッシング・ストローク「だけ」が目的の小説ではない。むしろこの大ネタは、テーマに見合った効果が期待されたから採用された、いうなれば「余録」みたいなものです。

あくまで本書は「ノワール」であり、ラストの技は、主人公の悲劇の真相を、最大限のインパクトをもって伝えるためにこそ供されている。そこの軽重を見誤ると、本書の本質をつかみそこねるのではないかと思います。

とはいえ、口コミの段階で「その手の小説らしいぞ」というバイアスはどうしてもかかってしまうわけで、実際には「綾辻行人さんや歌野晶午さんと比べるとどうも物足りなかった」とか言われちゃうんですけどね(笑)。正直、あんまりそことは比べないでほしいなあ。

 

あと、連載の一回目で触れたとおり、1950年代にはノワールの隆盛と平行して、ニューロティック・スリラーが盛んに書かれていました。このジャンルは異常心理を扱うだけに(主人公自体が問題を抱えていることも多い)、叙述トリックとの相性がすこぶる良く、(名前は挙げられませんが)いくつものどんでん返しもの、読者をひっかけるタイプの傑作ミステリーが生み出され、多くの作家がさらなる新奇なアイディアを競い合っていたのです。

『拾った女』や上記の類似作が、そういった出版状況下に執筆された作品である点は見逃せません。

 

 

(このあと、本当にネタのキモに触れざるを得ないので、未読の方がいらっしゃれば、ぜひ本のほうを先にお読みください)


 

2017年4月27日 11:26 | | コメント(0)

★ 一応、『拾った女』の終盤までの展開が記述に含まれますので、できれば、読了後読んでいただければ幸いです。

 

『拾った女』は、文芸としての分類上は、間違いなく「ノワール」に位置づけられる作品だと思いますが、最後まで読むと犯罪小説(クライム・ノヴェル)と呼ぶにはいろいろ語弊があるし(笑)、広義のミステリーだと捉えたとしても、しょうじき正体のよくわからない、ヌエのような小説であることはたしかです。

その「得体の知れなさ」の中核には、書いている本人自体にジャンル感がないこともあるでしょうし、主人公カップルへの感情移入をうながすような語り口でありながら、当の両名が何を考えているのかさっぱりわからないということもあるでしょう。

結局のところ、詩作や主流文学、美学にも関わっていたインテリの軍人が、「ペーパーバック」というエンタメの枠組みを利用して、書きたい小説を書いたというのが正しいところなのだと思います。

 

彼の第一作である『High Priest of California』(1953)も、パルプっぽい書きっぷりではありますが、クライム・ノヴェルかといわれると悩ましいところ。

ウィルフォード.jpg

中古車セールスマンの主人公ラッセルが、ダンスホールで知り合った女、アリスの部屋に押しかけ、「愛してる」とせまるのですが、彼女には精神疾患をわずらう年の離れた旦那がいました。ラッセルはこの夫を排除しようと、手を替え品を替え卑劣な策を弄します。この話のポイントは、犯罪スレスレの悪行三昧を積み重ねたあげく、ラストでようやく夫を精神病院送りにし、アリスに「あなたを愛してる」といわせたラッセルが、その時点でもはやアリスに対する興味の大半を喪っているあたりにあるのですが、この「壊れた」主人公像は、どこまでもノワール的だといえるでしょう。

「クライム・ノヴェルではないかもしれないが、純正のノワールである」第一作のありようは、そのまま本書『拾った女』にも引き継がれています。

 

★ノワール小説として

前にも述べたとおり、『拾った女』ほどに、諏訪部浩一さんの呈示する「戦後ノワール」の定義に当てはまる小説もありません。

一番のポイントは、本作において、どこか壊れた破滅型の主人公と、思いがけず「優しい」世界の対比という「逆転現象」が描かれている点でしょう。

多くの人は「ノワール」と聞くと、貧しさと世間のしがらみのなかで、もがき、苦しみながら、犯罪へと駆り立てられてゆく追い詰められたキャラクターを想起するかもしれません。しかし、それはむしろ戦前~戦中期に書かれた(撮られた)作品に顕著な傾向であって、戦後のノワールではむしろ、主人公の側が自らの心に闇を抱えているからこそ、世間からドロップアウトしてゆくわけです。

本作でも、主人公がもがき苦しんでいるというのは確かにそうなのですが、社会が彼に対して酷薄かというと、言うほどに厳しいようにはとても見えません。

主人公ハリーの周辺には、善良な人間がたくさんいて、誰もが彼のことを気にかけています。雇い主も、下宿の女将も、警官も、医師も、弁護士も、ハリーには明らかに好意的に接しています。過去の戦争を、彼は画家として安全にやり過ごしていますし、物語中に描き始めた絵にしても、誰に妨害されるでもなく普通に完成させています(ずっと後になって捨てられますが)。ヘレンにはちゃんと優秀な絵描きとして認められ、ボコボコにした相手には後から付きまとわれながらも結局見逃されます。明確にハリーの敵役としてでてくる兵隊やミセス・マシューズですら、話してみると実に物わかりがいい(笑)。後段の刑務所では、女は押し掛けてくるわ、世間的には時の人扱いだわ、ほとんどヒーローみたいな人気ぶりです。

この作品では、世間はむしろつねにハリーを受け入れよう、許そうとしている。少なくとも具体的な記述を読むかぎり、そうとしか読めない。

なのに、ハリーのほうがそれを素直に受け取らない。その理由はもちろんこの作品の大オチとも大いに関係があるわけですが、あのオチがあってなお、このお話のなかでやっていることが「おかしい」のは、どちらかといえば「世間」ではなく「ハリー」のほうなのでないか。

で、読者の側も、逆の現象(酷薄な世間と虐げられる主人公)を期待して読みすすめているから、だんだんとお腹の具合が悪いような、妙な気分になってくる(笑)。

一番、個人的にひっかかるのは、彼がせっかくありついた仕事を、何度となく簡単に辞めてしまう点ですね。いずれも雇い主はハリーのことを気に入っていて、べつだん辞めなくてもいいようなシチュエイションばかりなのに。死生観に関しても、恋愛観に関しても、ハリーというキャラクターには、どうにもとらえどころのない部分がある。善良ではあるが、どこかに壊れたものを抱えている。そして、この主人公の抱える「得体の知れなさ」が、物語を動かしていく動因になっている。

これぞ、ノワール。そう思いませんか?

ただ本作の場合、トンプスンやグーディスの描くキレッキレの主人公たちと違って、ハリーのキャラ造形に良識的で道徳的な側面が色濃く感じられるぶん、彼の「狂い」が「若干の違和感」「居心地の悪さ」という微温的なひっかかりにとどまっている。それは、ノワールとして本作が一般客に今ひとつアピールしない理由なのかもしれませんが、間違いなく作品の個性でもあり、魅力でもあるとも言えるのです。

 

ニューロティックな小説として

本作では、全編にわたって「精神分析」が関わってきます。

前に述べたとおり、戦後期はいよいよフロイト流の精神分析が人口に膾炙し、「人の隠された心」や「心と身体のかかわり」について関心が深まった時代でした。もともとキリスト教文化圏には「告解」の土壌があるぶん、精神分析医による施術を受け入れやすかったともいわれますが、ミステリーで「精神分析」モチーフが隆盛した背景としては、科学が大衆化する時代にあって、作家/読者の関心が次第に人間精神の機能的内面に向かっていったことも大きかったのでしょう。また、本格ミステリーなどでは、オカルトや心霊、超常現象といったモチーフが非科学的な子供だましのクリシェへと陳腐化してゆくなか、新味のある「得体の知れない謎めいた何か」として浮上してきた部分も大きいと思います。

ともあれ、「ノワール」という言葉に、「酒とカネと銃と犯罪」あたりを想起する人々にとって、本作でいきなり展開される長大な精神分析関連のイベントは、かなり唐突かつ妙ちきりんな内容に見えるのではないでしょうか。

最初の自殺の試みに失敗したあと、ヘレンは「あたしたちって先が全然、見通せない。必要なのは精神科のお医者さんの助けよ」(p99)と口にし、実際、二人は病院に足を運びます。第16章に入ると、留置所に入れられたハリーは、ふたたび精神分析医と対峙し、精神鑑定を延々とうけることになります。(「もちろん知ってるよ、病院だ、診察」p235)

しかし、こういった精神分析シーン、もしくは気軽に精神科医をあてにする登場人物の動きは、当時の小説全般において決して珍しいものではありませんでした。

ノワールにおいても、たとえば戦後ノワールの代表作ともいえるジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』では、精神分析が後半、重要な役割を果たします。比較的、唐突に主人公ルー・フォードが精神病院に移送され、とある奇妙なプログラムを強制されることになるのですが、このいかにも突拍子もない感じは、『拾った女』のそれと結構よく似ています(個人的に、『おれの中の殺し屋』の小説構造やモチーフの出し方は、アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』(1962)ともよく似ていると思いますが)。

前半戦で起きた様々な事象と、それを引き起こした主人公の内面を、後半に主人公が強要される精神分析によって客体化し、その結果として丸裸にされた主人公が何らかの変容(浄化?)を遂げる。この「煉獄めぐり」のような構造も、『おれの中の殺し屋』と『拾った女』の両作に通底した要素ではないかと思います。

 

★アート・ミステリーとして

本作は、芸術家くずれの男が、自らのアイデンティティを喪失し、ひとりの女との出逢いを通じて今一度の再生を図ろうとするも、結果として果たせずに終わる、やるせなく痛切な失敗の物語でもあります。

ここでも、周囲の人物はむしろ何かとハリーに便宜を図り、その腕前を褒めそやすのですが、ハリーのほうが、それを受け入れようとしません。彼自身のなかで(すでに物語が始まる前の段階で)何かが決定的に「折れて」いて、蝕まれた心は、最後まで自らの芸術的才能を認めることを拒絶しつづけるのです。

主人公の謎めいたキャラクターを語るうえでは、ヘレンの果たす役割以上に、実はこちら――芸術家としての挫折――のほうが重大な問題を孕んでいるともいえます。

作品中では、しきりに美術や芸術全般に関する言及が成されます。

彼がヘレンを描くときに彼女にとらせるポーズは、マネ「オランピア」のそれであり、他にもゴッホ、ゴーギャン、ジェイコブ・エプスタイン、パウル・クレーといったアーティストの名前が登場します(一箇所、眠るヘレンを前にしての幻視シーン(p186)で、ティツィアーノの名前が出てきますが、そもそも「オランピア」の構図はティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」に由来するもので、その祖型は「眠れるヴィーナス」と呼称されています)。

p107で注釈もなく出て来る引用句(「想像できないほどの昔から......」)は、オスカー・ワイルド『スフィンクス』冒頭から引いたものです(原書にも一切説明なく出て来るので、訳者さんと相談して、敢えて訳注などはつけませんでした)。

彼が留置所に収監されてからは、アートに関する話に過大なまでの記述が割かれます。抽象画家として身を立てようとしながら挫折するまでの過去回想や、抽象を志した人間であるがゆえに、「オランピア」を真似たヘレンの肖像画や、監房で描いた女性デッサンを卑下せざるを得ないあたりには、自らの限界を知った男の絶望がほの見えます。

ただ、どういう経緯でその絶望に至ったのかという一番肝心の部分が作中スルーされるので、我々はハリーという人物に近づけそうでいて近づけないわけです。

 

ウィルフォードは、自作で美術/芸術について言及することの多かった作家です。彼の代表作とも目される『炎に消えた名画(アート)』(1971)などは、まさに字義通りの「アート・ノワール」でした(しかも通例、美術ミステリーだと泰西名画の類が出てくるもんだと思うのですが、本作では、シュルレアリスムとダダイスムをつなぐ位置にあるというマニアックな幻の画家が登場しますw)。ウィルフォード自身、もともとは詩人志望でしたし、退役後にはフランスとペルーで、画家修行をしていたこともあります。彼にとってアートは常に大きな関心事であり、自作に取り込まずにはいられない題材でした。

ハリーというアカデミックな知性と審美眼を有する市井のフライ揚げ係は、こうして「ノワール」と「アート」を掛け合わせる不思議な営みのなかで生み出されたのでした。

 

★ハリーについてのよしなしごと

知的で紳士的でありながら、衝動的に離職、飲酒を繰り返し、周辺には思いがけないほど愛されるなか、自ら望んで堕ちてゆく。先に述べたとおり、ハリーは真の破滅型のキャラクターとして描かれており、それはヘレンと出会う「前から」そういう人間であったかのように思われます(その意味では、いかにもファム・ファタル譚めいた体裁をとりながら、本作は「まともな人間が女で身を持ち崩す」ファム・ファタル譚の定型からはかなりはずれた小説であると言わざるを得ません)。

彼につきまとう破滅衝動は、どこからもたらされたものなのか。当然、キャリアに挫折したことが彼にとって大きな心の傷となったと考えるのが自然でしょうが、そのへんについては肝心の部分がはっきりと語られない。そのため、ハリーという人間をどう捉えるかは、ひとえに、読者サイドの共感度にかかってくるわけです。

しかも本作は、ハリーの一人称で進行する物語であるにもかかわらず、彼の言動は必ずしも読者に対してフェアではない。

「ハリーに実は妻子がいた」という唐突な情報呈示(p258)に驚いた方は多かったかと思います(編集者ものけぞりました)。そうなんですね、彼は、ミステリー用語でいうところの、いわゆる「信頼できない語り部」なのです。

 

ハリーが必ずしも自らについて誠実に語っていないと考えるとき、気になってくるのが彼の女性観です。

たとえば、なぜ彼はかたくなに性交渉に関するカウンセリングを拒みつづけるのか(p266、p275)。本文中にはっきりとした記載はないので、結局は読み手が想像するしかないわけですが、ひとつのヒントとして、本書のなかで描かれる(ハリーの目から見た)ヘレンの描写には間違いなくある種の「偏り」があり、それは我々の心をざわつかせます。

 

「姿かたちは十代の娘のようだった」(p5)
「久しぶりだから。何年もしてないの」「あんたは小娘みたいだな」(p36)
「胸は小さく」「小さな乳首」(p41)
「もしそれがなければ、せいぜい十三歳くらいにしか見えなかっただろう」(p42)
「おしろいもつけないのか」「ええ口紅だけ」(p44)
「どちらかというと少女時代のあたしみたいだけど」(p66)
「実物よりずっと若いへレン」(p67)
「俺の目に映っているとおりのヘレン」(p68)

 

150cm、33歳、亭主持ちというexcuseの上で、徹底的に強調される処女性、少女性。しかも、ハリー本人が、このヘレン像が現実とは異なるある種の投影だと自覚しています。

なお、彼が捨ててきた実際の奥さんは「強く、知的で、有能」だとされ(p261)、彼は「これっぽっちも子どもを欲しいとは思わなかった」のに、彼女に「子供が出来た」のがひとつの理由で出奔したことになっています。

また、ハリーは、ヘレンを誘惑した労働者をボコボコにしていますし、ヘレンにキスをされた水兵に対しても、逆上して我を忘れて襲いかかっています。留置所では、自分に粉をかけてきたふしだらな女を、かなり有無を言わせず殴り倒しています。

もちろん、これらの言行を、単なる主人公の潔癖主義、モラリズム、ロマンティシズムがもたらしたものだと捉えても、この作品は普通に読めるはずです。それでも、主人公の「得体の知れなさ」を理解しようと、作中に隠されたヒントを探す読者にとっては、この「偏り」は気になるところかとも思うのです。

 

一方、ヘレンもまた死に取り憑かれた女であり、ハリー以上に破滅型の人間であることに間違いありません。ここでは深入りしませんが、彼女の母親の強烈なキャラクター、彼女が語るセルフヒストリー、不動産業者の旦那(年上でスーツ、品行方正)から逃げてきたエピソード(若干眉唾)などを考え合わせながら、なぜ彼女がここまで「こわれてしまった」のか、それが本当にアルコールだけに起因するものだったのかについて考えてみるのも一興でしょう。

 

本書には、他にもいろいろな読み方が存在するはずです。

ノワール版『同棲時代』――暗くせつない恋愛小説としてアプローチするのもよし(むしろ、それが一番普通の読み方なのかも)。

1950年代アメリカのパルプな風俗小説として読むもよし(店をハシゴしては食べて、呑んで、お金が尽きて、次が食べられるだけ働いて、食べて、呑んで、お金が尽きて......なんという貧乏たらしい無限ループw)。

ちなみに、編集者にとって、この話は、夜のサンフランシスコに始まり、雨のサンフランシスコで終わる、掛け値なしに悲惨でどこまでも闇色の、どうにも救いようのない「悲劇」だと思えてなりません。


何かそこまでの「悲劇」なのか、については最終回の記事で書きたいと思います。

 

それと、本作が「曲球(くせだま)」たる所以である、あのラスト2行についても。(編集Y)

 

2017年4月25日 23:09 | | コメント(0)

映画との関係性


当時の作家は、みなハリウッドと多かれ少なかれ関係を持っていました。当然、小説は映画の原作となりますし、逆に映画から小説へのフィードバックも大きかったはずです。ノワールのジャンル――犯罪映画と犯罪小説のあいだでも、その相関関係は変わらなかったのではないでしょうか。

実際、ウィルフォードやチャンドラー含め、この時代の作家のほとんどは、映画の現場でも大いに活躍していました。

ウィルフォードは、職業軍人として各地を転々としていた時期に、第二作である『拾った女』を執筆し出版しましたが、1956年に退役してからは小説家以外にも、プロボクサー、俳優、ラジオ・アナウンサーといった肩書をもって活動していたようです。1960年代には、『ヒッチコック・マガジン』の編集補佐の仕事もこなしていました(ちなみに、ちょうどこの頃はテレビ産業の成長期にもあたり、56年に創刊された『ヒッチコック・マガジン』にはその原作供給、脚本家発掘の機能もありました。ロアルド・ダールやジョン・コリアら「奇妙な味」短編の作家たちの活躍も50年代がピークで、彼らと映画/テレビ業界との結びつきは大変深いものです)。

後年、ウィルフォードは自作『コックファイター』(62)の映画化(モンテ・ヘルマン監督、プロデューサーはロジャー・コーマン、76)の脚本を書き、さらにはカメオ出演をはたしています。闘鶏ノワール(笑)ともいうべき味わい深い珍作でしたが、残念ながら興行的には大失敗に終わったようです。

このように、当時の作家の作品を語るうえで、映画との影響関係は看過できないものです。自分は50年代のノワール映画を網羅的に観ているわけではないので、ここではこれ以上深入りしませんが、作品を語る視座として、当時の小説と映画の距離感の近さはつねに念頭においておくべきことだろうと思っています。

 

 

アル中映画の系譜

『拾った女』に、ノワール的な要素とニューロティックな要素があることは、すでに確認したとおりです。ここからは、『拾った女』の「アル中小説」としての一面を、同時代作品との比較のなかで浮き彫りにしてみたいと思います。

戦後のアメリカでは、過度の飲酒によるアルコール依存が大きな社会問題となり、この時期制作された多くの小説や映画で題材とされました。もちろんモチーフとしてはフィッツジェラルド『夜はやさし』(1934、改訂版1951)など、昔からあったものですが、よりアルコールが病理的に、明快に身を蝕むドラッグとして扱われるようになったのです。

ノワールのジャンルでも、ハメット以来、「酔いどれ」、「飲んだくれ」、「酒浸り」はつねに中核的なモチーフであり続けました。たとえば、『拾った女』とほぼ同時期の作品である、ジム・トンプスン『失われた男』(1954)では、筋金入りのアル中が主人公として登場し、アルコール依存に由来するブラックアウトが、プロット上重要な意味を担っています。彼には、未訳ですが『The Alcoholics』(1953)というそのまんまのタイトルの小説もあります(ただし主人公はアル中の側ではなくて、アル中患者の収容クリニックの医者なのですが)。デイヴィッド・グーディスの小説に登場する主人公たちも、多くはアルコール依存の問題を抱えています。心にぽっかりと空いた闇を紛らわすために、彼らは酒をそこにつぎ込み続けるのです。

  トンプスン.jpg

 

当然ながら、『拾った女』もまた、そのコンテクストのなかに置かれるべき作品です。

 

『拾った女』の作品解釈をいざ具体的に始めようとするとき、先行作『失われた週末』(原作:チャールズ・ジャクスン、1944、映画:ビリー・ワイルダー監督、レイ・ミランド主演、1945)の存在を見逃すわけにはいきません。

原作は、帯に引用したウディ・ハウトの紹介文でも名を挙げられていた、元祖「アル中小説」。映画版も、アルコール依存を真正面から扱った映画としてはこれが初めての作品であり、さらには、前述した40年代「ニューロティック・フィルム」の代表作とも目されています。

主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は、33歳の売れない小説家で、重度のアルコール依存症。家族が出かけると、家中のカネを横取りして、なじみの酒場にかけつける毎日です。恋人のヘレンは3年前に知り合って以来、彼の酒癖をなんとか直そうとしてきましたが、虚しい努力に終わっています。ある日、酒に持ち金全てを使い尽くしたドンは、近所のレストランで隣の女のハンドバッグをくすねようとし、バレて店から放り出されます。その後、タイプライターを質に入れようとしますが、質屋は休業。結局、知り合いのウエイトレスから5ドルを借りるも、その場で失神してしまいます。気がつくと、アルコール依存専門の病棟に放り込まれていたドン。強迫観念に襲われてアパートに逃げ帰ったものの、そこで激しい幻覚に襲われ、ついには自殺を図ろうとします。結局、ヘレンの愛によってなんとか踏みとどまり、更生を誓うところで話は終わります。

改めてあらすじを辿ってみると、本作が『拾った女』の祖型の一部を成すことはやはり否定できない気がします。アルコール依存の描き方もさることながら、ヒロインの名前が同じヘレンですしね(そういえばどうでもいい話ですが、『拾った女』の35ページにも登場する電子楽器テルミンは、「観客に異常な緊張を与えるために」この映画で初めて本格的に使用されたんだそうです。まさに「ニューロティック」!)。

ただ上述の通り、この時期、同種のアルコール依存を扱った映画や小説は他にもたくさんあったわけで、たとえば、有名な映画作品としては、『喝采』(ジョージ・シートン監督、ビング・クロスビー主演、1954)や、『スタア誕生』(ジョージ・キューカー監督、ジュディ・ガーランド主演、1954)あたりが容易に想起されます。

『ハスラー』(原作:ウォルター・テヴィス、1959、映画版:ロバート・ロッセン監督、ポール・ニューマン主演、1961)は『拾った女』の後に発表された作品ですが、両作には驚くほど多くの類似点が見出されます。『ハスラー』の主人公もまた、「インテリだがアル中の大卒ヒロイン(病弱)」を「バスターミナル」でひっかけるんですが、このアル中どうしのダメな生活ぶりが、『拾った女』ときわめて近しい空気感なんですね(なお原作では二人は別れるだけですが、映画版のヒロインは終盤、自死するに至ります)。

で、この流れの行き着くところに、『酒とバラの日々』(ブレイク・エドワーズ監督、ジャック・レモン主演、1963)という、極めて恐ろしいアル中家庭崩壊映画があるわけです。未見の方にはぜひ一度ご覧いただきたいのですが、マジでビビりますよ。あまりに怖くて。ほとんどホラーの領域(笑)。なお、アルコール依存の程度がより重度で手に負えないのがヒロイン(リー・レミック)の方なのは、『拾った女』と共通した要素といえます。

このように、『拾った女』は、たしかに『失われた週末』直系の作品ではあるのですけれど、もっと大枠での「アルコール依存をニューロティックに扱った作品群」の一部を成すと考えたほうが、個人的にはしっくりくると思います。

 

さて、作品をとりまく時代的背景に関しては、ここまでで、なんとなくご理解いただけたのではないかと思います。

 

いよいよ次の記事からは、作品の読解をじっくり進めていくことにいたします!
さあ、お手元にある『拾った女』のページをめくってください!読み終えられたら、次の記事でお会いしましょう。
(編集Y)


 

2017年4月21日 04:51 | | コメント(0)

実は、今週末(4/22)に発表される第八回翻訳ミステリー大賞に、弊社のチャールズ・ウィルフォード著『拾った女』(浜野アキオ訳)がノミネートされております! すでに4/20締め切りで、本投票は行われたようですが......。

弊社といたしましては、昨年度から、このミスやら文春やら、いろいろな年間ベスト企画にお取り上げいただいたうえ、さらにこのような大きな賞にまでノミネートしていただけて、こんなに嬉しいことはございません。

あらためまして、『拾った女』を読んでいただき、望外の評価をくださった全ての皆様に、心からの感謝の言葉を贈りたいと思います。

 

一方で、去年は読み逃したけど、そこまで言うなら、せっかくだからこれを機に読んでみようかな、という方もいらっしゃるかもしれません(というか、いらっしゃるといいなあ)。

そこで、翻訳ミステリー大賞のブームアップも兼ねて、これから『拾った女』を読まれる方に向けて、改めて、本書の読みどころなどをご紹介してみようかな、というのが本稿の主旨でございます。

 

この原稿は、もともと昨年、都内有志の皆様が開いてくださった『拾った女』読書会に、編集者がお邪魔した折に持参した、読書会用レジュメを改稿したものです。

なので、読み物というよりは、箇条書きの項目の列挙、作品のご紹介というよりは、編集者が本書を読む際にたどった実際の思考の過程をトレースしたような内容になっておりますが、そのへんは平にご容赦ください。

 

それと、相変わらず書きすぎてしまって、ひとつの記事とするにはちょっと長すぎるので、四回ほどに分けて掲載する予定です。

では、お手元に『拾った女』をご準備くださいませ!

 


★1955年に書かれたミステリー

まずは、本書が発表された1955年およびその周辺に、他にどんなミステリーが出版されたのか、そのラインナップを改めて確認しておきましょう。

 

(おもな1955年発表作)
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』
マーガレット・ミラー 『狙った獣』
ヘレン・マクロイ The Long Body(翌年に『幽霊の2/3』、翌々年に『殺す者と殺される者』)
ビル・バリンジャー 『歯と爪』
セバスチャン・ジャプリゾ 『シンデレラの罠』
パトリック・クェンティン 『二人の妻をもつ男』
クリスティアナ・ブランド 『はなれわざ』
アステリア・マクリーン 『女王陛下のユリシーズ号』
フレドリック・ブラウン 『火星人ゴーホーム』

 

(ノワール、ハードボイルド系)
ジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』1952年(55年作は『アフター・ダーク』)
ミッキー・スピレーン『燃える接吻を』1952年
ロス・マクドナルド『象牙色の嘲笑』1952年
レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』1953年
デイヴィッド・グーディス『狼は天使の匂い』1954年
ハドリー・チェイス『ダイヤを抱いて地獄へ行け』1955年

 

ちなみに本格系ビッグ3の1955年作は、カー『喉切り隊長』、クリスティー『ヒッコリーロードの殺人』、クイーン『クイーン検事局』といった感じですね。

こうして見ると、ハードボイルドはジャンルとしてすでに完熟期に入り、のちにノワールと呼ばれる一群のクライム・ノヴェルが量産されていた時期にあたることがわかります。
一方、広義のミステリー界を見渡してみるなら、本格黄金期~新本格の勃興期を受けて、アメリカを中心に、新たなタイプの作家たちが新機軸の作品を次々と発表していた時期だといえるでしょう。
とくに、『狙った獣』、『歯と爪』、『シンデレラの罠』、『はなれわざ』といった一定の傾向をもつ作品群と、これから読んでいただく『拾った女』との同時代性は火を見るより明らかで、こうやって一覧で見ると、むしろ「時代性ってこういうことか」とびっくりするくらいですが、このへんは、また読み終わられてから話題として蒸し返すつもりです。

 


ノワールとは何か?

本書の帯に麗々しく打たれた「傑作ノワール」との惹句(まあ自分で書いたわけですが)。

この「ノワール」という呼称に、ピンと来ていない読者の方が意外と多いんだなあ、というのが、実は読書会に参加させていただいた際の率直な感想でした。

結局、皆さん、「ノワール」という呼び名で喚起されるイメージが、えらくまちまちなんですね。

編集者などは扶桑社の社員だからか、まずはやっぱりジム・トンプスンを想起するわけですが、ここでジェイムズ・エルロイのことを考える人もいれば、フランスのギャング映画を考える人もいる。香港ノワールを思い浮かべる人もいれば、馳星周が脳裏に浮かぶ人もいる......。そりゃそうですよね。正直、なかなか難しいなあと思います。

 

こういうイメージの多義性が生じるのは、「ノワール」という言葉が、必ずしも明快なジャンルを指すタームではなかったことが一因となっています。

もともと「ノワール」という単語は、フランス発祥の映画/小説用語です。第二次世界大戦中に製作されたアメリカ犯罪映画の一群を、戦後フランスで「フィルム・ノワール」と呼称したことに端を発し、一方、ほぼ同時期のフランスで、「セリ・ノワール」というアメリカ犯罪小説の翻訳をメインとするミステリー叢書(ガニマール社)が創刊され、人気を博しました。

こうしてフランス人によって規定された「ノワール」という概念が、のちに本国であるアメリカにも逆輸入されたのでした。

ただ、実際にアメリカで「ノワール」という単語が本格的に流布したのは、1980年代に入って、フィルム・ノワールのリヴァイヴァル上映と、「ブラック・リザード」叢書の刊行が始まってからだといわれています。ここで「ノワール作家」の筆頭とされたのが前出のジム・トンプスンであり、結局、「ジム・トンプスンみたいな犯罪小説」の源流をたどる中で、ノワールの概念はハメットまで遡及する形で固められていきました。

 

要するに、「ノワール」というのは、よその国経由で、しかも書かれて半世紀もしてから「再規定」されたジャンルなわけです。だから、今「ノワール作家」として扱われる当時の作家たちは、当然ながら、自分たちの書いている小説を「ノワール」だとは考えていなかった。彼らは、あくまで自分たちを、クライム・ノヴェルの作家だとしかとらえていなかったのです。

 

では、小説において「ノワール」という言葉は、具体的にどのようなタイプの作品を指すものなのでしょうか。いろいろな定義がありうるとは思うのですが、ここではハメット研究の権威でもある諏訪部浩一さんの『ノワール文学講義』の記述におおむね従って、ご紹介していきたいと思います。

一般に、ノワール小説は1930年代のアメリカで書かれるようになったとされます。従来「ハードボイルド小説」の先駆者といわれてきた、ダシール・ハメットやジェイムズ・M・ケインといった作家の作品が、ノワールの源流と認識されているわけですね。

諏訪部さんは、ノワール小説を、社会の閉塞性&主人公の性格的・道徳的破綻が重要な要素を成す犯罪小説、として規定しています。そのうえで、30年代の「初期ノワール」と、戦後ノワールとに分けて、その特性を説明されています。

 

(戦前)大恐慌後の社会の変化のなか、逃げ出そうとするが失敗し、破滅する悲劇
(代表作家)ダシール・ハメット、ジェイムズ・M・ケイン、ホレス・マッコイ

 

(戦後)「初期ノワールに強くあった社会批判的な意識が薄くなり、代わりに個人の内面、より限定的には異常な心理状態といったものに作品の焦点があわされていくことになった」(ノワール文学講義 p36)
(代表作家)ジム・トンプスン、デイヴィッド・グーディス、ライオネル・ホワイト

 

あるいは、主人公が立ち向かう相手であったはずの「社会」が、戦後の好景気で悲劇の母胎として機能しなくなったがゆえに、逆に悲劇の萌芽を主人公自身の「内なる闇」に見いだしていったのが、戦後ノワールの変遷だといってもいいのかもしれません。

そう考えると、『拾った女』ほどに、諏訪部さんのいう「戦後ノワール」の定義に当てはまる作品もないのではないかと思えてくるわけです。

 

 

ニューロティック・スリラーとの関係性

で、ここからは編集者の自説なのですが、ハードボイルド/ペーパーバック系のクライム・ノヴェルを源流とするノワールの展開を考える際には、もうひとつ、一般に「ニューロティック・スリラー」と呼称されるミステリー・ジャンルとの同時代性にももっと注目すべきではないか、と。

ニューロティック・スリラーは、いわゆる異常心理をテーマ(モチーフ)とする映画/ミステリーの総称であり、アメリカで40年代に盛んとなり、50年代にいくつかの大きな結実を見せたジャンルです。
映画では『白い恐怖』(アルフレッド・ヒッチコック、45)『暗い鏡』(ロバート・シオドマク、46)『イヴの三つの顔』(ナナリー・ジョンソン、57)あたりがぱっと想起されますし、ミステリーでは、マーガレット・ミラー、ジョン・フランクリン・バーディン、ヘレン・ユースティス等が代表作家にあげられるでしょうか。これらの作品群に共通するのは、

●戦争によるPTSDや、幼少時のトラウマによる「動機」の発生
●「精神分析」を積極的に取り入れた描写、キャラクター設定
●「信頼できない語り手」「信頼できない主人公」をプロットに活かす方向性

といった部分であり、いわゆる「どんでん返し」系ときわめて親和性が高いのもポイントのひとつです。上記の作家以外も、ヘレン・マクロイはほぼその系統といっていい作品をいくつかものしていますし(そもそも探偵役が精神分析医)、パトリシア・ハイスミスもニューロティックな要素はかなり強い。後年登場するリチャード・ニーリィという特殊作家もまた、この系譜の正統な直系に属しているといえます。

戦後のニューロティック・スリラー隆盛の背景には、アメリカにおけるフロイト精神分析の爆発的流行と、帰還兵たちの抱える心理的外傷の顕在化、サイコ・キラー犯罪の劇場化など、様々な要素が絡まっていると思われます。でも考えてみると、これらの要素って、まさに戦後期ノワールを特徴づけるものでもあるのではないでしょうか。

初期ノワールから戦後期ノワールに至って変質したとされる部分――「代わりに個人の内面、より限定的には異常な心理状態といったものに作品の焦点があわされていく」あたりは、まさにニューロティック・スリラーの「キモ」に他ならないのではないか?

むしろ戦後期ノワールは、ハードボイルド的潮流とニューロティック・スリラー的潮流の潮目に生まれたあだ花だったといえるのではないか?

そう考えつつ、1955年作品のリストを改めて見ると、『拾った女』という作品がこの年に生み出されたのは、まさに必然だったとも思えてくるのです。

それではこのへんで一旦切って、次の記事では、さらにいくつかの映画を引き合いに出しつつ、本作が同時代作品と共有するまた別の一要素について考えてみたいと思います。(編集Y)

2017年4月21日 04:28 | | コメント(0)

お待たせいたしました!! 本日、ついに発売!!

スティーヴン・ハンターボブ・リー・スワガー・シリーズ最新作『Gマン 宿命の銃弾』(上・下)をお届けいたします。

 

Gman_Brog.jpg

■オンライン書店で購入する(上巻)
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 ■オンライン書店で購入する(下巻)
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 

 前作が『我が名は切り裂きジャック』(上・下)とノンシリーズ作品だったこともあって、2年ぶりのシリーズ新刊となります。

諸般の事情で・・・・、なんと世界最速発売でございます!

欧米諸国に先んじて、日本のファンの皆様にハンター最新刊をお届けできる喜び!(別にそれを目指していたわけでは全然なかったのですが・・・結果的にそうなりました!)

 

出だしのあらすじは、こんな感じです。

 

アーカンソー州にあるボブ・リー・スワガーの地所の造成地から、

祖父チャールズの遺品と思われるコルト45と紙幣、謎の地図、

金属製の部品、そして1934年のみ用いられたFBIの前身、

司法省捜査局のバッジが発見される。

ジョン・デリンジャーやベビーフェイス・ニルソンといった

名うての悪漢が跋扈した時代に、当時、ポーク郡の保安官

だった祖父は、どうやら捜査局の捜査官(Gマン)に協力して、

アウトローたちを狩り出す任務に従事していたらしい。

自らのルーツでもある祖父の謎に満ちた事績を追うべく、

ボブは調査を開始する!

 

今回の真の主役は、なんとボブ・リーの祖父、チャールズ・F・スワガー。

 

ディープなシリーズ・ファンの方なら、あっと思うことでしょう。

そう、実はチャールズ・F・スワガーは、本シリーズに初登場というわけではありません。

ボブ・リーの父アールが主人公をつとめた『悪徳の都』(上・下)でも、ちょっとだけ(でも重要な役どころで)名前が出ていた人物なんですね。

 

このたび、初めて、そのチャールズが本格的に登場します。

こうして、「スワガー・サーガ」は、「親子三代の物語」から、「親子四代の物語」へと、さらなるバージョン・アップを果たすことになります。

銃器に愛された特別な漢たち――スワガーの血脈を通じて、アメリカという国家の歴史を語り、戦争史、精神史を語る壮大なる叙事詩。それが「スワガー・サーガ」。

ハンターは、ここに「祖父」を組み込むことで、その射程範囲をさらに過去へと遡及させたのです。

 

チャールズ・F・スワガー。

信頼される保安官(ザ・シェリフ)。凄腕のガンファイター。

そして、謎を遺したまま不遇な最期をとげた男。

彼の秘められた「大仕事」とはなんだったのか? そして、なぜ彼はすべてのFBIの記録から抹消されることになったのか・・・?

 

本作で、スティーヴン・ハンターは1934年という特別な年に焦点をあてます。

1934年。アウトローたちが束の間の悪の光芒を放ち、そして一瞬で燃え尽きていった画期となる年。

ボニー&クライド、〈パブリック・エネミー・ナンバー・ワン〉ジョン・デリンジャー、ベビーフェイス・ネルソン・・・。名うての銀行強盗たちがアメリカ全土を荒らしまわり、創設間もないFBIの前身である捜査局が、彼らを追いかけたマンハント(人狩り)の年。

このアメリカ史上類を見ない、善悪の攻防と銃撃戦に彩られた硝煙ただよう時代のただなかに、ハンターはチャールズを送り込みます。

実際、本作の登場人物は、チャールズ以外、ほとんど実在の捜査官であり、実在の犯罪者です(その動向や最期も概ね史実にそっています)。

『第三の銃弾』、『スナイパーの誇り』など、痛快アクション小説の枠組みを保ちながらも、歴史に対する深い洞察と実地研究を実証的に作品内に反映させてきた、近年のハンターらしい内容といえるでしょう。

 

1934年をハンターなりの解釈で活写するという歴史小説的趣向。そこに掛け合わされたのは、ウェスタンを祖型とする男たちの熱い友情と闘争の物語でした。

本作には――ボブ・リーはさておくとして、チャールズ以外にもうひとり、主役と呼びうる登場人物がいます。彼こそは、ベビーフェイス・ネルソンこと、レスター・ギリス

当時、もっとも危険な犯罪者と目された冷徹な狂犬(でも愛妻家)の姿を、ハンターは生き生きと描き出してゆきます。偶像化することなく、リアルに、醒めた筆致で。

チャールズ・スワガー Vs ベビーフェイス・ネルソン。本書の中核にあるのは、この二人の壮絶な戦いです。

そう、ここではハンター作品の中核的な要素といえる「ウェスタン」の本質――「追う者と追われる者」「狩る者と狩られる者」のドラマが展開されているのです。

 

そして、なんといっても〈スワガー・サーガ〉最大のお楽しみは、細緻な銃器描写と圧巻のガン・アクション。本作でも、皆様のご期待にがっつりこたえてくれます!!

時代設定上、スナイパーライフルこそあまり登場しないですが、今回かわりに活躍するのがコルト・ガバメントトンプソン・サブマシンガン(トミー・ガン)。特に後者はこの時代を象徴する銃だといえます。

ネルソン(レス)が愛用するのは、改造マシン・ピストル

 

「なんでもないさ、おまわりさん」そう言って、彼は発砲した。

当然ながら、銃は彼の意志に逆らおうとした。小さすぎ、軽量すぎるため、二二口径のハードボールを立てつづけに発射する反動に耐えられないからだ。瓶から悪鬼が飛びだしたかのような銃口炎があがり、超高速で前後するスライドの反力によって銃口の向きが絶え間なく不規則にずれるために、その閃光は狂ったように空のほうへ向かおうとし、銃が熱い空薬莢を右側に排出しながら弾薬をむさぼってゆくにつれ、銃口の向きは上へ、右へとそれていこうとした。右側から熱い空薬莢が立てつづけに排出され、飛行の頂点に達して落下していく。だが、彼はミスター・レブマンが防塵蓋に溶接したフロントグリップを左手でがっちりと握って、パトカーへ着実に連射を浴びせていった。すべての弾丸がガラスをつらぬくか、ひび割れさせるか、粉砕するかとなり、ふたつの人影が銃弾に引き裂かれて、跳ねあがり、よじれ、震える。

すぐに、ことは終わった。マシン・ピストルは一秒足らずで弾倉の全弾を食いつくしただろう。硝煙の甘い香りがレスの鼻をくすぐり、彼は媚薬を嗅ぐようにそれを吸いこんだ。もっとほしい。なんていいにおいなんだ。煙をあげるオートマティック銃を意気揚々と構えている自分が、ひどく颯爽とした男であるように感じられた。自分はこういう瞬間をおおいに愛し、それを味わうために生きているのだ。こいつは本当に最高だ!(上巻p281-282より)

 

一方、チャールズはコルト45をもっぱら携行しています。

 

 動いている人影のやや上方に狙いをつけたとき、チャールズの心に備わっている機構が作動して、いまだと告げ、同時に拳銃を発砲した。銃声と閃光があがり、反動で銃口は跳ねあがって、空薬莢が飛ぶ・・・チャールズは一発撃っただけだったが、相手のギャングは半秒間で十発を立てつづけに撃ち、銃口から白熱した閃光が一本の筋となって噴出した。連射された銃弾が地面に当たって、砂煙が宙にたなびく。みごとに一列に並んだ着弾点から、つぎつぎに砂塵が舞いあがったが、こちらに命中した弾は一発もなかった。まだ撃ち始めたばかりだし、あとは照星を合わせればいいだけのことだ。これで三度めの調整となる――体ふたつと四分の一分上方、身体半分前方――に照星を合わせたところで発砲すると、その直後、狙った男が被弾したようによろりとあとずさるのが見えた。(上巻p284より)

 

どうです? いつものハンターさんですよね!

 

と期待も高まったところで・・・、他にもいろいろご紹介したいこと、語りたいことがたくさんあるのですが、まずはいったんここまで。『Gマン 宿命の銃弾』(上・下)。全国書店にて本日発売です。ぜひご一読ください!(編集Y)

  

 

2017年3月29日 10:09 | | コメント(0)

『30の神品』は、古今東西のショートショートの中から、第一人者である江坂遊さんが30篇の名品を厳選したアンソロジーです。

 

当ブログでのご紹介は こちら !

 

当然ながら作品の選定と並べ順、および解説に関しては、すべて江坂さんにお願いしております。

(若干の作品で、こちらから選定作の調整をお願いしたりはしましたがご快諾をいただきました)

で、編集者のほうはといいますと、掲載が決まった作品の許可取りと、著作権者および底本出版社との諸条件の調整を行いつつ、実際の本作りの作業(および各作品の著者紹介作成)を進めることになります。

親本から各作品をデータ化して、書籍の体裁にととのえてゲラにするという作業自体は、これまでも何度もやってきた作業であり、とりたてて何も申し上げることはないわけですが......

今回はとにかく掲載作品数が30篇もあって、著作権者が山ほどいるんですね(笑)。

その許可取りを、一ヶ月の作業期間で本作りと平行して終わらせないといけない。

これが結構たいへんでした。

 

ちなみに、30篇のうち、日本人の方で著作権が切れているのは早逝された山川方夫さんだけで、あとは著者ないし訳者の方(およびそのご遺族の著作権継承者の方)全員と連絡をとって、ご許可をいただく必要がありました(もちろんお支払いも)。

海外古典作品の著者は概ね著作権が切れているか、「10年留保」と呼ばれる特別な規定(これにあてはまれば、翻訳権を取得しないですむ)に収まるケースが大半でしたが、ジャック・リッチーのみ翻訳権を獲得する必要がありました。さらには親本の版元が権利を主張するケースもあり、結局40人くらいを相手に、連絡および交渉をさせていただくことに。

これがもう、やってもやっても終わらない。30本ってマジ半端ない・・・しょうじき、ショートショートなめてました(笑)。

会社の台帳や文藝年鑑、インターネットなどでぱっと連絡先がわかる方ばかりではありません。むしろ、大半の方には、徒手空拳の状態からツテを頼って調べてゆくしかないのです。特に現役の作家さんならまだしも、亡くなられた作家さんや翻訳者さんのご遺族を探すという作業は、なかなかに大変なミッションでして......(創元のKさん、本当にお世話になりました!)。

 ---‐

そんななか、中原涼さんのご逝去を知ったのは、許可取り作業も終盤のことでした。

中原さんは、「笑う宇宙」で奇想天外SF新人賞の佳作を受賞してデビューされてから、ショートショート作品を精力的に発表しながらも、のちに少女小説のジャンルで大成功を収められた作家さんです(ちなみに男性の方です)。代表作の「アリス」シリーズは、講談社X文庫ティーンズハートで35巻を数える長寿シリーズとなっています。

流行作家になられても、中原さんのショートショートへの情熱は醒めることなく、「ショートショートランド」や井上雅彦さん編集の「異形コレクション」などで、定期的に作品を発表されていました。

今回「地球嫌い」を収録するにあたり、掲載許可をいただこうと思ったのですが、江坂さんや周辺の方にうかがっても、ここ5年くらいの中原さんの動向がつかめず、講談社に連絡しても最近は郵送物が戻ってきてしまう、わかるならむしろ教えてくださいとのお話。そこで、二冊のショートショート集の単行本を出されている地人書館さんに問い合わせたところ、すでに亡くなられたとのお話と、娘さんのご連絡先を頂戴できたのでした。

娘さんいわく、長く肝臓を患っておられたとのこと。2013年5月にご逝去されたとのお話ですから、もう亡くなられて3年が経っていました。

SF・ショートショート界でもご存じだった方はいらっしゃらなかったようでしたので、娘さんのご許可をいただき、僭越ながら編集者のほうから、井上雅彦さん経由で他の作家の皆様にも情報を共有させていただきました。改めて、心からご冥福をお祈り申し上げます。

実は、中原さんのショートショート集三冊のうち、今回掲載した「地球嫌い」を収録した『笑う宇宙』(地人書館)は、今でも版が生きています。これぞショートショートというべき珠玉の作品集ですので、この機会にぜひ読んでみていただけるとうれしいです。

 ----

和田誠さんの「おさる日記」の親本は絵本です。イラストレーター、デザイナー、映画監督など多彩な才能を発揮する和田さんですが、こういう一面もあるということは、ご存じなかった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

語り口が仕掛けに直結しているうえにきれいにオチるという、完成度の高い絶妙の小噺であり、これを「ショートショート」として切り出してくる江坂さんの慧眼には恐れ入ります。

当初、当方が底本として考えていたのは偕成社さんが1994年に出されていた絵本で、村上康成さんが挿絵を描いたものでした(もともとは、1966年に『話の特集』に掲載されたのが初出で、その際のイラストは長新太さん、74年には『にっぽんほら話』という短編集にも収録されており、そのときの絵は大橋歩さんでした。その後、白石加代子さんや大竹しのぶさんの朗読劇でも取り上げられたようです)。

ところが、和田さんの事務所に連絡を取らせていただいたところ、偕成社版のあと、2009年、個展に合わせて和田さん自身の挿絵で再度、私家本として書籍化したとのお話。

なに? 私家本ですと?......私家本だと、書店経由では購入することができません。慌ててネットで検索したところ、今は表参道のHBギャラリーという画廊でのみ販売しているらしい。それなのに......該当の画面を見ると「品切れ」の表示。これにはあせりました。

結局、HBギャラリーにご連絡したら、「店頭販売のみ若干の在庫があります」とのことで、事なきを得ました。お店に行って購入して帰ってきたあと、いざ中身を偕成社版と見比べてたら、てにをはが大幅に変更してあるのに加えて、もともと「×月×日」と入っていたところに全部ちゃんと日付が入れ直してある。......これは直さないとまずい。改めて、手に入ってよかったと、ほっと胸をなでおろしたのでした。

一応、掲載時はHBギャラリー版の表記に従い、ノートふうの表記で原本のテイストをできるかぎり保持するよう心がけましたが、やはりもともとは絵本だった作品のテクストだけを掲載したもの。本来の味わいを楽しむためには、親本にあたっていただくほかありません。

----

ロバート・ブロック「夫を殺してはみたけれど」は、もともと旧『奇想天外』誌上でいったん訳されたのみで、その後、どの短編集にも一度も載ったことがないという掘り出し物の一編です。雑誌のうめぐさ的な小噺が源流であるショートショートのお手本のような作品といえるでしょう。江坂さんからは、『奇想天外』のコピーがまわってきました。

この作品の場合、編集者を幻惑したのは「書誌」でした。

いつも参考にさせていただいているネット上の翻訳作品集成の書誌サイトで、本作(原題Double Tragedy)が、『殺しのグルメ』(仁賀克雄訳、徳間文庫)所収の「裏切り」(原題Double-Cross)の別訳として表記してあったんですね。

Double TragedyとDouble-Crossが同じ作品の別題だというのは、このサイトにかぎらず海外のサイトでも同じ扱いでありまして、てっきり信じ込んでいたところが......いざ『殺しのグルメ』を取り寄せてみたらまるで別の作品!

実はあの時期、「夫を殺してはみたけれど」の翻訳者、小沢瑞穂さんとなかなか連絡がとれず、いざとなったら仁賀さん訳で行こうと心に決めていたので、これにはかなりびっくりしました。結局、夜討ち朝駆けではないですが、休日の朝8時にようやく小沢さんに電話がつながりまして、いろいろと事なきを得た次第です。快く掲載許可をくださっていた仁賀先生、せっかくのご好意を無下にして、本当に申し訳ありませんでした!

----

本書は銀河系ナンバーワン打線を目指したショートショートアンソロジーですので、星新一、筒井康隆、阿刀田高、都筑道夫、スレッサー、サキといった大御所の代表作や、「みずうみ」「賢者の贈りもの」「アウル・クリーク橋の一事件」「猿の手」「女か虎か」といった超有名作が目白押しで揃っております。ただ、そのなかで個人的なおすすめを一点だけあげるとするならば、ちょっと変化球気味ではありますが、岸田今日子さんの「冬休みに あった人」になるかと。

皆さん、岸田今日子さんといえばどんなことを想起されるでしょうか?

『砂の女』や『卍』の妖艶な女優さん? 『傷だらけの天使』の綾部さん? ムーミンの声優さん?

編集者にとって、彼女の残した仕事でもっとも忘れがたいのは、傑作アニメーション『プリンセスチュチュ』(全26話)の冒頭に流れるミニ童話のナレーションです。

わが人生のオールタイム・ベスト作である『プリンセスチュチュ』がいかに優れた作品かは、いつかBDボックスが発売された折にでも5万字、10万字を費やして語りたいところですが、このアニメ、毎回最初に本編と若干連動した30秒くらいの「ちょっと怖い童話」が必ず流れるんですね。これが単品で見ても、もう言葉を絶する完成度でして。まさに映像における「ショートショート」とは、これを指すんだろうなというくらいの。で、その怖い「ショートショート」を驚くべき「声」の力で成立させていたのが、岸田今日子さんなのでした。

「声」でショートショートを成立させる魔法の使い手である岸田さんは、筆をもってもショートショートの抜群の名手でした。その素晴らしさは、読んでいただければご理解いただけるはず。

ぜひ熟読玩味していただき、もしお気に召されたならば、他の岸田今日子作品にも(古本でしか買えませんが)手を伸ばしてほしいな、と思います。

『二つの月の記憶』(講談社)と『ラストシーン』(角川文庫)、どちらもおすすめです(江坂さんの大のおすすめは『ラストシーン』所収の「セニスィエンタの家」)。それと短編集とはいえませんが子供にしてあげたお話 してあげなかったお話(大和書房、異本あり)にもいくつかショートショートが掲載されており、こちらに所収の「香港の黒豚」は、女教師の夏休みを描いたという意味では「冬休みに あった人」と対になるようなお話。やはり詩的な文体のなかに毒を秘めた傑作です。

----

その他、当初は掲載を予定していながらも、著作権継承者さんが長年どの社にも許可を出されていないということで見送らざるを得なかった幻の超有名ショートショート作品の話なども面白そうですが、今はやめておきます(笑)(結局、江坂さんに代打をお願いして「かげ草」をバッターボックスに送っていただきました)。

一点、「便利な治療」マッシモ・ボンテンベルリ作、ルは小字)の翻訳者である岩崎純孝さんに関しましては、親本の版元さん(筑摩書房さん)にお願いして所在を追っていただいたのですが、結局、著作権継承者の方を探し出すことができませんでした。もしご存じの方がいらっしゃったらご一報ください。よろしくお願い申し上げます。(編集Y)

 

 

 

 

 

 

 

2016年12月20日 22:35 | | コメント(0)

先週末、『このミステリーがすごい!2007年版』が発売されました。

弊社の『拾った女』(チャールズ・ウィルフォード著 浜野アキオ訳)は、

海外編で4位を獲得しました!

 

祝・各社年末ベスト企画 オールベスト5入り!!

PickUp cover.jpg

 ■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 

作品紹介は こちら !

 

今年はほんとうに良い年となりました。

あとは、ひとりでも多くの方が『拾った女』に手を伸ばしてくださることを祈るばかりです。

 

それと! ブレることなく弊社の怪作『ジグソーマン』(ゴード・ロロ著 高里ひろ訳)を年間一位に推してくださった小財満さん、本当にありがとうございました!! 

ああ同好の士よ!いくら感謝しても、したりません!! 

評論家人生を懸けて(?)ご推薦いただいた蛮勇、

もとい、その熱い想い、しかと受け取りました!

 

皆様も、『拾った女』と合わせて、ぜひこの機会に世紀の傑作『ジグソーマン』をお読みください!

 

ジグソーマンblog.jpg

■オンライン書店で購入する
amazonセブンネットショッピング楽天ブックサービスhonto

 

紹介は こちら !

 

その他、女性麻薬捜査官が麻薬組織相手に大活躍する痛快作『奪還』(M.A.ロースン著 髙山祥子訳)や、アクションの巨匠が犯罪史上最大の謎に挑んだ『わたしは切り裂きジャック』(上・下)(スティーヴン・ハンター著 公手成幸訳)なども、名前をあげてくださった方がいらっしゃいました。本当にありがたい限りでございます。

他の出版社に比べると、探しにくい店の奥にひっそりと棚があることの多い版元ではございますが、ぜひこの機会に合わせてお読みいただけると嬉しく思います。

 

来年もハンターやカッスラー、ロリンズをはじめ、面白い小説、マニアックなミステリーを積極的に発刊していきたいと考えておりますので、扶桑社ミステリーに今後とも厚いご支援を賜りますよう、心からお願い申し上げます!(編集Y)

 

 

 

 

 

2016年12月12日 18:43 | | コメント(0)

ページの先頭へ