まだお前はしゃべりたりないのか、という感じですが、今回は若干ネタバレ気味に、本作の読みどころと、著者の作品に関する発言をご紹介したいと思います。先入観なくお読みになりたい方はご注意ください。

お読みいただいた方は皆さんお気づきのように、本作は、スタイルこそ全く異なるものの、前作『オックスフォード連続殺人』と表裏一体の関係にあります。
数学的思考の果てに“可能性の領域”へとたどり着く詩的論理性においても、ミステリの形式を借りて行われる文学的実験性においても、本作は前作と著しい同期を示しています。そもそも連続死というモチーフや、終盤の物語的“拡散”と大量死、老と若の対決など、個々の要素にも通底するものがあります。
一方、両作には明確な差異もあって、前作が「数学者」たちの物語だったのに対し、本作は二人の「作家」の闘争の物語となっています。世界を統べる必然と偶然の理を追い求める“数学者”にして“作家”であるところのマルティネスは、今回、軸足を“作家”側に移して、“執筆”という行為の淵源を探りつつ、フィクションの喚起する“力”の解釈をめぐってディープな考察を試みているわけです。これは、彼のある種の“作家的”成熟といってもいいのではないでしょうか。

ちなみに、作家本人は、小説を書くにあたってあなたの数学者としての知識が役に立ちましたか? との質問に対して以下のようにこたえています。

「私は文筆を職業とする数学者として自分をとらえたことはなく、むしろ人生の中でたまたま数学と出会った作家なのだと思っています。私の小説の中で、数学というものはヘミングウェイの叙述が与えてくれる知的収穫に匹敵するほどの重要な役割は果たしてはいません。数学は私自身が精通している分野ですから、登場人物やテーマの着想を与えてはくれます。しかし、数学的な要素が私の小説の特徴というわけではありませんし、そうなって欲しくないとも考えています。今回の作品には数学の要素はほとんどありません。統計学の初歩である偶然についてわずかに議論されているだけです」2008年10月7日、スペイン、デイア紙

別のインタビューにおいて、マルティネスは本作を、作中でも言及されるヘンリー・ジェイムズの『ノートブックに書いた覚書』に直接の霊感を受けて執筆したとし、もとは短編として企画したが書いているうちに長編になったと述べています。いろいろと示唆的な発言をしているのですが、とくにキモとなる部分をご紹介してみたいと思います。

「この物語の出発点は曖昧さにあり、ルシアナの話にいくらかの疑問の余地を残すことにあります。小説の中で起きるどの出来事も、何らかの意図が働いてのことなのか、単なる偶然なのかがはっきりせず、どちらとも解釈できます。中心人物たちにとってさえもそれは同じなのです。私は机上にさまざまな可能性をすべて並べてみた上で、何らかの創造的な手法を使い、一つ一つの可能性を熟考してみたいと考えました。例えば、小説の中では偶然というテーマが火災と対比される形で検討されます。火災も偶然も、最初はあらゆる形をとることができ、また、決して一つの形に留まることはありません。私は、二者択一という常識的な偶然の概念を打ち破ろうとしました。というのも、表には現れないけれども、偶然にも決まった形、反復、パターンへと向かう傾向というものがこの世には存在するからです。偶然というのは一般的な人間が考える因果関係にもっと近いところにあるのです。この見方は二人の作家の美的価値観にも反映されています」(2007年12月11日、アルゼンチン パヒナ12紙

(以下、マジでネタバレなので折り返します。本篇読了後に気が向いたらご覧ください)

(編集Y)









読了された方はご承知のとおり、本作はいわゆる「藪の中」、リドル・ストーリーとして企図された小説です。
ただ、そうとわかって読んでなお、本作のラストは、人によってさまざまな感慨を喚起するものでしょう。「おいおい、なんだそれ」と愕然とされる方も多いかもしれません。
でも個人的には、これほどまでに残酷で辛辣でひねりの利いたエンディングもそうそうない気がしています。
ルシアナの最期の願いはなんだったでしょうか。――〈少なくとも妹だけは助かって欲しい〉(p271)
そして、「結婚」について二人の作家はなんと言っていたでしょうか。――「ジェイムズの小説では、結婚は殺人の一つの形態であるとも言えるでしょうね」「なるほど。誘拐に始まる殺人ですか」(p134)
そして、最後のクロステルの一言。
この物語は、起こった出来事が「偶然の符合」だったか「意図の反映」だったかにかかわらず、少なくともクロステルの復讐譚としては、これ以上ないくらい綺麗に完結しているのですね……。

2009年7月16日 12:46

コメント(0)

Comment

コメントする

ページの先頭へ