『四十七人目の男』は、日本人にとって、たしかにハードルの高い作品かもしれません。
敵のヤクザが近藤勇で、そのボスが着物ポルノの大立者“ショーグン”で、美少女剣士と山ごもり特訓して突如サムライになったボブ・リーが、妖刀村正をめぐって大乱戦。辻斬りポイントが新宿花園神社横の遊歩道(確かにあそこは暗いよね)、ラストバトルの舞台は××(わかるけど微妙に地味なチョイス)! まあ、いろいろとどうかと思うわけですよ。
嫁がどんな話かって訊くから説明したら、「それ、どんな『キル・ビル』」って絶句してました。……まあそう言うよね。でも、あんた今いいこと言った。
たぶん、この作品の本当の良さは、そこから入らないといけないと思うんです。
誰が読んでも思う『キル・ビル』っぽさ。そこを潔く認めるところから。

『キル・ビルVol.1』の公開が2003年ですから、献辞に邦画関係者の名前を何人並べようが、あとがきでどう言おうが、『四十七人』の発想源の中核にタランティーノがあったことは否定できないでしょう。
というか、献辞に出てくる人々の映画だけを観てこんな話になるわけがないし、本当に日本人が何人も下読みしてくれた結果がこれだとすればなおさらです。まして、桜田さくらとか瀬戸由衣とか観て女神とか言ってる人が(このド変態さん)、こんなゆがんだAV理解のはずがない。
要するに、あからさまに『キル・ビル』みたいな小説を目指して書かれたのが『四十七人』というわけです。
ハンターは、本当の日本がこうじゃないことは重々承知のうえで、敢えてバカをやってる。
わざと、『キル・ビル』みたいな日本を求めて書いている。
そして、そもそも、ハンターはそういう作家である、というのが、本稿の趣旨です。

編集者が最初に読んだハンターは、実は『ブラックライト』でした。
予備知識ゼロで読んでそのとき思ったのは、なんて80年代ダイハード・ヒーロー映画っぽいキャラクターづけなんだろう、ということでした。そして、その潔さにシビれました。
英国冒険小説ふうの人間臭いヒーロー像でもなく、先行するカッスラーやクランシーの提示するアメリカ的ヒーロー像とも若干テイストのちがう、“傑作B級アクション映画的”なスーパー・ヒーロー像。危機が全く危機に感じられないまでの主人公の圧倒的な不死身(ダイハード)ぶりと、能天気なまでに揺るがない不動のメンタリティ&絶対的正義。
そこにあるのは、正しく80年代アクション映画のマシズムと娯楽性を引き継いだ、あっけらかんとしたエンタメの極致でした。
たとえ、大藪春彦並の微に入り細をうがつ銃器描写と、こねくりまわしたイカした文体が「小説」としての結構を支え、ある種の風格と重厚味を与えているとしても、ああ、この人は本質的に映画の人なんだな、と思ったわけです。
で、折り返しの紹介を見て、本業が新聞社の映画評論というアメリカ屈指のシネフィルであることを知り、はたと膝を打ち納得したのでした。

ハンターの書歴は、その実、「男のアクション」と評し得るすべてのジャンルを次々と制圧してきた歴史でもあります。
軍事アクションに始まり、『ダーティホワイトボーイズ』の悪漢小説を経由し、スナイパー・アクションをボブ・リー初期三部作を通じてやり尽くしたハンターは、父のアールを主人公に、ギャングものやらキューバ革命ものやらにまで手を伸ばします。
これを“スワガー・サーガ”と呼んで、自律的な小説世界の発展ととる認識もきっと正しいのでしょう。小説内のキャラクターがおのずから成長、増殖し、アメリカの「男の歴史」をかたづくっていく、そんなロマン主義的解釈もきっと、ありなんだと思います。
一方で、もっとあけすけでリアルな動機もあるんじゃないかという気も個人的にはするわけです。
彼は本質的な部分で、シネフィルであり、クリティークです。
ジャンルフリークであり、網羅的な達成を重んじるオタクなのです。
おそらく彼の最大のモチベーションは、彼自身が愛するアクション映画(&小説)の世界を、自らも再創造したい、という部分にあるのではないか。
だから、スナイパーだけでは、ベトナム戦争だけでは、とても満足できない。
ギャングの抗争もやりたい、太平洋戦争もやりたい。
だから、時代の都合上、父親がひっぱりだされるのです。
父アール・スワガーは、1905年生まれ。この設定は実のところ、ヘンリー・フォンダ(1905年生)やジョン・ウェイン、ジェームズ・ステュワート(1908年生)あたりとほぼ同年代なのですね。
一方、ボブ・リーの生年は、1946年。……誰と一緒かって? 
そう、ボブ・リーは、あのランボー=シルヴェスター・スタローンと同年生まれなのです。ちなみに彼の盟友シュワちゃんは1947年生まれ(ボブ・リーの元ネタとされるカール・ハスコックは1942年生まれ)。
アールと、ボブ・リーの背負っている世代性というのは、まさにそのへんなのであります。

アクション映画史における二つのピークを、「サーガ」を設定することでまとめて小説世界にひきこんでしまった、ピューリッツァー賞映画評論家でもあるハンター。
その意味で、彼のメンタリティというのは、映画人でいえばトリュフォーからスコセッシ、タランティーノに至る「評論家あがり」の系譜、ファンが高じて実作者になったひとびとと共通する部分があります。
彼の野望はおそらくなら「面白いアクションのあらゆる“型”を、既存作への限りないオマージュをこめて制圧してゆく」こと。
そこで70~80年代をボブ・リーで、40~60年代をアールでひととおりなぞったハンターが、いまだ未開の領域であり、しかもアクション・マニアとしては垂涎の大ジャンル――「チャンバラ」に目を向けるのはむしろ必然だったのかもしれません。
そして、そのアプローチが、似たタイプであるタランティーノを意識したものであったことも。
おお。やっと『四十七人目の男』に話がつながりました。

『四十七人目の男』のファンキーな芸風というのは、その実、ハンターにとってはむしろ「素の部分」といってもいいものなのかもしれません。
これまで、一見まじめそうな顔でスワガー・サーガを書いてきたハンター。
それは、ちょうどタランティーノが『レザボア・ドッグス』でデビューし、あるいは『レオン』までのリュック・ベッソンが思いきり猫をかぶっていたのと似ているともいえます。ハンターが根っこの部分で、B級大好きバカ大好きの愉快なオヤジであることは、なんとなく『極大射程』や『ブラックライト』のころからぷんぷん漂ってはいました。
その本性を本気で解放してみせた作品――タラちゃんの『キル・ビル』やベッソンの『フィフスエレメント』にあたる作品――こそが、『四十七人目の男』なのではないでしょうか。
実際、この作品は、ばかばかしい、という一点をのぞけば、実によく組み立てられたまっとうな復讐譚であり、痛快無比のチャンバラ・アクションに仕上がっています。コミックテイストのスーパー・ヒーロー譚としての骨格は、これまでのスワガー・サーガから、いささかもぶれていません。
ただ、リアルなディテールと凝った文体で糊塗していた部分が、キッチュな肉付けに替わったというだけのこと。そして、欧米の人にとって、それはエンターテインメントにおける架空の「日本」の描写としては、むしろ“ふつう”の味付け。日本人にとって、アラブといえばラクダに族長、アマゾンといえばヤノマミ族というのと、そう変わらない。逆にハンターが細かい日本の風俗をやけに調べてリアリズムを付与したりしているぶん、“妙”な部分が強調されてるきらいもあります。
これを楽しめないようじゃあ、本当にハンターが好きだとはいえないのではないか。正直、そのくらい思います。
少なくとも、ハンター作品の芯の部分には、「ツッコミ待ち」のようなマンガっぽさがもともとある。それを日本という幻想の東洋において、いかんなく発揮してみせたのが、本作の魅力なのです。
ヒーローが日本でハメをはずすのは、007の昔からシュワちゃん、スタローンに至るまで、アクションの王道。それを楽しめてこその日本のファンってもんじゃありませんか。
ぜひ、気楽に鷹揚な姿勢で手にとって、おおらかな心で楽しんでいただければ、出版社として、これほどうれしいことはございません。では、次回は『黄昏の狙撃手』のご紹介です!(編集Y)

2011年1月19日 17:17

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