2017年4月アーカイブ

★今回の記事では、作品の結末について言及しています。未読の方はくれぐれも閲覧をご遠慮いただき、必ず『拾った女』を読了してから目を通していただけると幸いです。

 

 

 


いよいよ、『拾った女』のラストについて。

こういうラストをもつ作品を担当するときいつも悩むのは、どこまで表紙まわりや事前宣伝で仕掛けの存在を明かしていいものか、ということでして。

そりゃあ、何も言わないのが、本当は一番なのです。

たとえ何も言わなくても、そういうことをよくやる作家だと周知されているだけで、もう警戒されてしまうくらいなんだから。もう、言わぬが花。沈黙は金。

読者だって、何も知らないほうがいいにきまってる。

でも一方で、そこが作品の大きな売りの一つなわけですから、送り出す側としては、何かしら触れないわけにもいかない。

今回の帯で若島正先生にいただいた推薦文は、そのあたりを読者の方にある程度「忖度」してもらえる、ギリギリのラインをうまく攻めて下さっていたのではないかと。

 

本書のラストに仕掛けられているフィニッシング・ストロークは、現代日本のミステリー・シーンにおいては、もはや古めかしいものかもしれません。

ただ、こういう仕掛けを成功させるために大切なのは、読者の虚を突くこと、予見させないこと、ジャンルを偽ることであるとするなら、本書は実にうまいスタンスで書かれた小説ではないかと思います。
そういうことをやる小説ではない、ノワールだ(もしくは恋愛譚だ)と思って読んでいた多くの皆様は、明後日の方向からぶっ飛ばされたような衝撃を存分に体験できたのではないでしょうか。

 

★類似作の存在

 

出版する前、実は編集者はまったく異なる予想を立てていました。

出した瞬間、四方八方から、「あの『××』とおんなじトリックじゃねえか!」と責め立てられるのではないかと思い込んでいたのです。

『××』とは、連載第一回の同時代リストにも名前のある作家による、かつて(少なくとも編集者が学生だった頃)は名作表やオールタイムベストにも結構載っていた某作品です。

しかも、小説としてノワールの体裁をとる点や、ラストで明かされる真相まで「まるで一緒」なので、さすがに突っ込まれても仕方ないのかな、と。

ただ、書かれた年は、『拾った女』のほうが2年も早く、影響関係は不明なまでも、こっちのほうが先行作であることはぜひ強調しておかないと、と思ったりしていました。

 

でも、蓋を開けてみれば、ネット書評やTwitterや読書メーターを見ても、ほとんどその件に関して言及されている方がいない。読書会にお邪魔した際も、どなたもご存じないとのこと(一名ご出席の某評論家先生を除く)。なんだか編集者が日々の本作りにかまけて時代に置いてきぼりにされているあいだに、あまり読まれない本になってしまっていたようなんですね。

まあ実際、いうほど面白い本じゃないんですけど、ぶっちゃけ(笑)。

 

むしろここで重要なのは、いま上で触れた某作品の著者が、そういう仕掛けばかり考えていた叙述トリック・プロパーのはしりみたいな作家であるのに対して、ウィルフォードのほうは、別段そればかりを狙っていた作家ではないということでしょう。

すなわち、本作はフィニッシング・ストローク「だけ」が目的の小説ではない。むしろこの大ネタは、テーマに見合った効果が期待されたから採用された、いうなれば「余録」みたいなものです。

あくまで本書は「ノワール」であり、ラストの技は、主人公の悲劇の真相を、最大限のインパクトをもって伝えるためにこそ供されている。そこの軽重を見誤ると、本書の本質をつかみそこねるのではないかと思います。

とはいえ、口コミの段階で「その手の小説らしいぞ」というバイアスはどうしてもかかってしまうわけで、実際には「綾辻行人さんや歌野晶午さんと比べるとどうも物足りなかった」とか言われちゃうんですけどね(笑)。正直、あんまりそことは比べないでほしいなあ。

 

あと、連載の一回目で触れたとおり、1950年代にはノワールの隆盛と平行して、ニューロティック・スリラーが盛んに書かれていました。このジャンルは異常心理を扱うだけに(主人公自体が問題を抱えていることも多い)、叙述トリックとの相性がすこぶる良く、(名前は挙げられませんが)いくつものどんでん返しもの、読者をひっかけるタイプの傑作ミステリーが生み出され、多くの作家がさらなる新奇なアイディアを競い合っていたのです。

『拾った女』や上記の類似作が、そういった出版状況下に執筆された作品である点は見逃せません。

 

 

(このあと、本当にネタのキモに触れざるを得ないので、未読の方がいらっしゃれば、ぜひ本のほうを先にお読みください)


 

2017年4月27日 11:26 | | コメント(1)

★ 一応、『拾った女』の終盤までの展開が記述に含まれますので、できれば、読了後読んでいただければ幸いです。

 

『拾った女』は、文芸としての分類上は、間違いなく「ノワール」に位置づけられる作品だと思いますが、最後まで読むと犯罪小説(クライム・ノヴェル)と呼ぶにはいろいろ語弊があるし(笑)、広義のミステリーだと捉えたとしても、しょうじき正体のよくわからない、ヌエのような小説であることはたしかです。

その「得体の知れなさ」の中核には、書いている本人自体にジャンル感がないこともあるでしょうし、主人公カップルへの感情移入をうながすような語り口でありながら、当の両名が何を考えているのかさっぱりわからないということもあるでしょう。

結局のところ、詩作や主流文学、美学にも関わっていたインテリの軍人が、「ペーパーバック」というエンタメの枠組みを利用して、書きたい小説を書いたというのが正しいところなのだと思います。

 

彼の第一作である『High Priest of California』(1953)も、パルプっぽい書きっぷりではありますが、クライム・ノヴェルかといわれると悩ましいところ。

ウィルフォード.jpg

中古車セールスマンの主人公ラッセルが、ダンスホールで知り合った女、アリスの部屋に押しかけ、「愛してる」とせまるのですが、彼女には精神疾患をわずらう年の離れた旦那がいました。ラッセルはこの夫を排除しようと、手を替え品を替え卑劣な策を弄します。この話のポイントは、犯罪スレスレの悪行三昧を積み重ねたあげく、ラストでようやく夫を精神病院送りにし、アリスに「あなたを愛してる」といわせたラッセルが、その時点でもはやアリスに対する興味の大半を喪っているあたりにあるのですが、この「壊れた」主人公像は、どこまでもノワール的だといえるでしょう。

「クライム・ノヴェルではないかもしれないが、純正のノワールである」第一作のありようは、そのまま本書『拾った女』にも引き継がれています。

 

★ノワール小説として

前にも述べたとおり、『拾った女』ほどに、諏訪部浩一さんの呈示する「戦後ノワール」の定義に当てはまる小説もありません。

一番のポイントは、本作において、どこか壊れた破滅型の主人公と、思いがけず「優しい」世界の対比という「逆転現象」が描かれている点でしょう。

多くの人は「ノワール」と聞くと、貧しさと世間のしがらみのなかで、もがき、苦しみながら、犯罪へと駆り立てられてゆく追い詰められたキャラクターを想起するかもしれません。しかし、それはむしろ戦前~戦中期に書かれた(撮られた)作品に顕著な傾向であって、戦後のノワールではむしろ、主人公の側が自らの心に闇を抱えているからこそ、世間からドロップアウトしてゆくわけです。

本作でも、主人公がもがき苦しんでいるというのは確かにそうなのですが、社会が彼に対して酷薄かというと、言うほどに厳しいようにはとても見えません。

主人公ハリーの周辺には、善良な人間がたくさんいて、誰もが彼のことを気にかけています。雇い主も、下宿の女将も、警官も、医師も、弁護士も、ハリーには明らかに好意的に接しています。過去の戦争を、彼は画家として安全にやり過ごしていますし、物語中に描き始めた絵にしても、誰に妨害されるでもなく普通に完成させています(ずっと後になって捨てられますが)。ヘレンにはちゃんと優秀な絵描きとして認められ、ボコボコにした相手には後から付きまとわれながらも結局見逃されます。明確にハリーの敵役としてでてくる兵隊やミセス・マシューズですら、話してみると実に物わかりがいい(笑)。後段の刑務所では、女は押し掛けてくるわ、世間的には時の人扱いだわ、ほとんどヒーローみたいな人気ぶりです。

この作品では、世間はむしろつねにハリーを受け入れよう、許そうとしている。少なくとも具体的な記述を読むかぎり、そうとしか読めない。

なのに、ハリーのほうがそれを素直に受け取らない。その理由はもちろんこの作品の大オチとも大いに関係があるわけですが、あのオチがあってなお、このお話のなかでやっていることが「おかしい」のは、どちらかといえば「世間」ではなく「ハリー」のほうなのでないか。

で、読者の側も、逆の現象(酷薄な世間と虐げられる主人公)を期待して読みすすめているから、だんだんとお腹の具合が悪いような、妙な気分になってくる(笑)。

一番、個人的にひっかかるのは、彼がせっかくありついた仕事を、何度となく簡単に辞めてしまう点ですね。いずれも雇い主はハリーのことを気に入っていて、べつだん辞めなくてもいいようなシチュエイションばかりなのに。死生観に関しても、恋愛観に関しても、ハリーというキャラクターには、どうにもとらえどころのない部分がある。善良ではあるが、どこかに壊れたものを抱えている。そして、この主人公の抱える「得体の知れなさ」が、物語を動かしていく動因になっている。

これぞ、ノワール。そう思いませんか?

ただ本作の場合、トンプスンやグーディスの描くキレッキレの主人公たちと違って、ハリーのキャラ造形に良識的で道徳的な側面が色濃く感じられるぶん、彼の「狂い」が「若干の違和感」「居心地の悪さ」という微温的なひっかかりにとどまっている。それは、ノワールとして本作が一般客に今ひとつアピールしない理由なのかもしれませんが、間違いなく作品の個性でもあり、魅力でもあるとも言えるのです。

 

ニューロティックな小説として

本作では、全編にわたって「精神分析」が関わってきます。

前に述べたとおり、戦後期はいよいよフロイト流の精神分析が人口に膾炙し、「人の隠された心」や「心と身体のかかわり」について関心が深まった時代でした。もともとキリスト教文化圏には「告解」の土壌があるぶん、精神分析医による施術を受け入れやすかったともいわれますが、ミステリーで「精神分析」モチーフが隆盛した背景としては、科学が大衆化する時代にあって、作家/読者の関心が次第に人間精神の機能的内面に向かっていったことも大きかったのでしょう。また、本格ミステリーなどでは、オカルトや心霊、超常現象といったモチーフが非科学的な子供だましのクリシェへと陳腐化してゆくなか、新味のある「得体の知れない謎めいた何か」として浮上してきた部分も大きいと思います。

ともあれ、「ノワール」という言葉に、「酒とカネと銃と犯罪」あたりを想起する人々にとって、本作でいきなり展開される長大な精神分析関連のイベントは、かなり唐突かつ妙ちきりんな内容に見えるのではないでしょうか。

最初の自殺の試みに失敗したあと、ヘレンは「あたしたちって先が全然、見通せない。必要なのは精神科のお医者さんの助けよ」(p99)と口にし、実際、二人は病院に足を運びます。第16章に入ると、留置所に入れられたハリーは、ふたたび精神分析医と対峙し、精神鑑定を延々とうけることになります。(「もちろん知ってるよ、病院だ、診察」p235)

しかし、こういった精神分析シーン、もしくは気軽に精神科医をあてにする登場人物の動きは、当時の小説全般において決して珍しいものではありませんでした。

ノワールにおいても、たとえば戦後ノワールの代表作ともいえるジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』では、精神分析が後半、重要な役割を果たします。比較的、唐突に主人公ルー・フォードが精神病院に移送され、とある奇妙なプログラムを強制されることになるのですが、このいかにも突拍子もない感じは、『拾った女』のそれと結構よく似ています(個人的に、『おれの中の殺し屋』の小説構造やモチーフの出し方は、アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』(1962)ともよく似ていると思いますが)。

前半戦で起きた様々な事象と、それを引き起こした主人公の内面を、後半に主人公が強要される精神分析によって客体化し、その結果として丸裸にされた主人公が何らかの変容(浄化?)を遂げる。この「煉獄めぐり」のような構造も、『おれの中の殺し屋』と『拾った女』の両作に通底した要素ではないかと思います。

 

★アート・ミステリーとして

本作は、芸術家くずれの男が、自らのアイデンティティを喪失し、ひとりの女との出逢いを通じて今一度の再生を図ろうとするも、結果として果たせずに終わる、やるせなく痛切な失敗の物語でもあります。

ここでも、周囲の人物はむしろ何かとハリーに便宜を図り、その腕前を褒めそやすのですが、ハリーのほうが、それを受け入れようとしません。彼自身のなかで(すでに物語が始まる前の段階で)何かが決定的に「折れて」いて、蝕まれた心は、最後まで自らの芸術的才能を認めることを拒絶しつづけるのです。

主人公の謎めいたキャラクターを語るうえでは、ヘレンの果たす役割以上に、実はこちら――芸術家としての挫折――のほうが重大な問題を孕んでいるともいえます。

作品中では、しきりに美術や芸術全般に関する言及が成されます。

彼がヘレンを描くときに彼女にとらせるポーズは、マネ「オランピア」のそれであり、他にもゴッホ、ゴーギャン、ジェイコブ・エプスタイン、パウル・クレーといったアーティストの名前が登場します(一箇所、眠るヘレンを前にしての幻視シーン(p186)で、ティツィアーノの名前が出てきますが、そもそも「オランピア」の構図はティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」に由来するもので、その祖型は「眠れるヴィーナス」と呼称されています)。

p107で注釈もなく出て来る引用句(「想像できないほどの昔から......」)は、オスカー・ワイルド『スフィンクス』冒頭から引いたものです(原書にも一切説明なく出て来るので、訳者さんと相談して、敢えて訳注などはつけませんでした)。

彼が留置所に収監されてからは、アートに関する話に過大なまでの記述が割かれます。抽象画家として身を立てようとしながら挫折するまでの過去回想や、抽象を志した人間であるがゆえに、「オランピア」を真似たヘレンの肖像画や、監房で描いた女性デッサンを卑下せざるを得ないあたりには、自らの限界を知った男の絶望がほの見えます。

ただ、どういう経緯でその絶望に至ったのかという一番肝心の部分が作中スルーされるので、我々はハリーという人物に近づけそうでいて近づけないわけです。

 

ウィルフォードは、自作で美術/芸術について言及することの多かった作家です。彼の代表作とも目される『炎に消えた名画(アート)』(1971)などは、まさに字義通りの「アート・ノワール」でした(しかも通例、美術ミステリーだと泰西名画の類が出てくるもんだと思うのですが、本作では、シュルレアリスムとダダイスムをつなぐ位置にあるというマニアックな幻の画家が登場しますw)。ウィルフォード自身、もともとは詩人志望でしたし、退役後にはフランスとペルーで、画家修行をしていたこともあります。彼にとってアートは常に大きな関心事であり、自作に取り込まずにはいられない題材でした。

ハリーというアカデミックな知性と審美眼を有する市井のフライ揚げ係は、こうして「ノワール」と「アート」を掛け合わせる不思議な営みのなかで生み出されたのでした。

 

★ハリーについてのよしなしごと

知的で紳士的でありながら、衝動的に離職、飲酒を繰り返し、周辺には思いがけないほど愛されるなか、自ら望んで堕ちてゆく。先に述べたとおり、ハリーは真の破滅型のキャラクターとして描かれており、それはヘレンと出会う「前から」そういう人間であったかのように思われます(その意味では、いかにもファム・ファタル譚めいた体裁をとりながら、本作は「まともな人間が女で身を持ち崩す」ファム・ファタル譚の定型からはかなりはずれた小説であると言わざるを得ません)。

彼につきまとう破滅衝動は、どこからもたらされたものなのか。当然、キャリアに挫折したことが彼にとって大きな心の傷となったと考えるのが自然でしょうが、そのへんについては肝心の部分がはっきりと語られない。そのため、ハリーという人間をどう捉えるかは、ひとえに、読者サイドの共感度にかかってくるわけです。

しかも本作は、ハリーの一人称で進行する物語であるにもかかわらず、彼の言動は必ずしも読者に対してフェアではない。

「ハリーに実は妻子がいた」という唐突な情報呈示(p258)に驚いた方は多かったかと思います(編集者ものけぞりました)。そうなんですね、彼は、ミステリー用語でいうところの、いわゆる「信頼できない語り部」なのです。

 

ハリーが必ずしも自らについて誠実に語っていないと考えるとき、気になってくるのが彼の女性観です。

たとえば、なぜ彼はかたくなに性交渉に関するカウンセリングを拒みつづけるのか(p266、p275)。本文中にはっきりとした記載はないので、結局は読み手が想像するしかないわけですが、ひとつのヒントとして、本書のなかで描かれる(ハリーの目から見た)ヘレンの描写には間違いなくある種の「偏り」があり、それは我々の心をざわつかせます。

 

「姿かたちは十代の娘のようだった」(p5)
「久しぶりだから。何年もしてないの」「あんたは小娘みたいだな」(p36)
「胸は小さく」「小さな乳首」(p41)
「もしそれがなければ、せいぜい十三歳くらいにしか見えなかっただろう」(p42)
「おしろいもつけないのか」「ええ口紅だけ」(p44)
「どちらかというと少女時代のあたしみたいだけど」(p66)
「実物よりずっと若いへレン」(p67)
「俺の目に映っているとおりのヘレン」(p68)

 

150cm、33歳、亭主持ちというexcuseの上で、徹底的に強調される処女性、少女性。しかも、ハリー本人が、このヘレン像が現実とは異なるある種の投影だと自覚しています。

なお、彼が捨ててきた実際の奥さんは「強く、知的で、有能」だとされ(p261)、彼は「これっぽっちも子どもを欲しいとは思わなかった」のに、彼女に「子供が出来た」のがひとつの理由で出奔したことになっています。

また、ハリーは、ヘレンを誘惑した労働者をボコボコにしていますし、ヘレンにキスをされた水兵に対しても、逆上して我を忘れて襲いかかっています。留置所では、自分に粉をかけてきたふしだらな女を、かなり有無を言わせず殴り倒しています。

もちろん、これらの言行を、単なる主人公の潔癖主義、モラリズム、ロマンティシズムがもたらしたものだと捉えても、この作品は普通に読めるはずです。それでも、主人公の「得体の知れなさ」を理解しようと、作中に隠されたヒントを探す読者にとっては、この「偏り」は気になるところかとも思うのです。

 

一方、ヘレンもまた死に取り憑かれた女であり、ハリー以上に破滅型の人間であることに間違いありません。ここでは深入りしませんが、彼女の母親の強烈なキャラクター、彼女が語るセルフヒストリー、不動産業者の旦那(年上でスーツ、品行方正)から逃げてきたエピソード(若干眉唾)などを考え合わせながら、なぜ彼女がここまで「こわれてしまった」のか、それが本当にアルコールだけに起因するものだったのかについて考えてみるのも一興でしょう。

 

本書には、他にもいろいろな読み方が存在するはずです。

ノワール版『同棲時代』――暗くせつない恋愛小説としてアプローチするのもよし(むしろ、それが一番普通の読み方なのかも)。

1950年代アメリカのパルプな風俗小説として読むもよし(店をハシゴしては食べて、呑んで、お金が尽きて、次が食べられるだけ働いて、食べて、呑んで、お金が尽きて......なんという貧乏たらしい無限ループw)。

ちなみに、編集者にとって、この話は、夜のサンフランシスコに始まり、雨のサンフランシスコで終わる、掛け値なしに悲惨でどこまでも闇色の、どうにも救いようのない「悲劇」だと思えてなりません。


何かそこまでの「悲劇」なのか、については最終回の記事で書きたいと思います。

 

それと、本作が「曲球(くせだま)」たる所以である、あのラスト2行についても。(編集Y)

 

2017年4月25日 23:09 | | コメント(0)

映画との関係性


当時の作家は、みなハリウッドと多かれ少なかれ関係を持っていました。当然、小説は映画の原作となりますし、逆に映画から小説へのフィードバックも大きかったはずです。ノワールのジャンル――犯罪映画と犯罪小説のあいだでも、その相関関係は変わらなかったのではないでしょうか。

実際、ウィルフォードやチャンドラー含め、この時代の作家のほとんどは、映画の現場でも大いに活躍していました。

ウィルフォードは、職業軍人として各地を転々としていた時期に、第二作である『拾った女』を執筆し出版しましたが、1956年に退役してからは小説家以外にも、プロボクサー、俳優、ラジオ・アナウンサーといった肩書をもって活動していたようです。1960年代には、『ヒッチコック・マガジン』の編集補佐の仕事もこなしていました(ちなみに、ちょうどこの頃はテレビ産業の成長期にもあたり、56年に創刊された『ヒッチコック・マガジン』にはその原作供給、脚本家発掘の機能もありました。ロアルド・ダールやジョン・コリアら「奇妙な味」短編の作家たちの活躍も50年代がピークで、彼らと映画/テレビ業界との結びつきは大変深いものです)。

後年、ウィルフォードは自作『コックファイター』(62)の映画化(モンテ・ヘルマン監督、プロデューサーはロジャー・コーマン、76)の脚本を書き、さらにはカメオ出演をはたしています。闘鶏ノワール(笑)ともいうべき味わい深い珍作でしたが、残念ながら興行的には大失敗に終わったようです。

このように、当時の作家の作品を語るうえで、映画との影響関係は看過できないものです。自分は50年代のノワール映画を網羅的に観ているわけではないので、ここではこれ以上深入りしませんが、作品を語る視座として、当時の小説と映画の距離感の近さはつねに念頭においておくべきことだろうと思っています。

 

 

アル中映画の系譜

『拾った女』に、ノワール的な要素とニューロティックな要素があることは、すでに確認したとおりです。ここからは、『拾った女』の「アル中小説」としての一面を、同時代作品との比較のなかで浮き彫りにしてみたいと思います。

戦後のアメリカでは、過度の飲酒によるアルコール依存が大きな社会問題となり、この時期制作された多くの小説や映画で題材とされました。もちろんモチーフとしてはフィッツジェラルド『夜はやさし』(1934、改訂版1951)など、昔からあったものですが、よりアルコールが病理的に、明快に身を蝕むドラッグとして扱われるようになったのです。

ノワールのジャンルでも、ハメット以来、「酔いどれ」、「飲んだくれ」、「酒浸り」はつねに中核的なモチーフであり続けました。たとえば、『拾った女』とほぼ同時期の作品である、ジム・トンプスン『失われた男』(1954)では、筋金入りのアル中が主人公として登場し、アルコール依存に由来するブラックアウトが、プロット上重要な意味を担っています。彼には、未訳ですが『The Alcoholics』(1953)というそのまんまのタイトルの小説もあります(ただし主人公はアル中の側ではなくて、アル中患者の収容クリニックの医者なのですが)。デイヴィッド・グーディスの小説に登場する主人公たちも、多くはアルコール依存の問題を抱えています。心にぽっかりと空いた闇を紛らわすために、彼らは酒をそこにつぎ込み続けるのです。

  トンプスン.jpg

 

当然ながら、『拾った女』もまた、そのコンテクストのなかに置かれるべき作品です。

 

『拾った女』の作品解釈をいざ具体的に始めようとするとき、先行作『失われた週末』(原作:チャールズ・ジャクスン、1944、映画:ビリー・ワイルダー監督、レイ・ミランド主演、1945)の存在を見逃すわけにはいきません。

原作は、帯に引用したウディ・ハウトの紹介文でも名を挙げられていた、元祖「アル中小説」。映画版も、アルコール依存を真正面から扱った映画としてはこれが初めての作品であり、さらには、前述した40年代「ニューロティック・フィルム」の代表作とも目されています。

主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は、33歳の売れない小説家で、重度のアルコール依存症。家族が出かけると、家中のカネを横取りして、なじみの酒場にかけつける毎日です。恋人のヘレンは3年前に知り合って以来、彼の酒癖をなんとか直そうとしてきましたが、虚しい努力に終わっています。ある日、酒に持ち金全てを使い尽くしたドンは、近所のレストランで隣の女のハンドバッグをくすねようとし、バレて店から放り出されます。その後、タイプライターを質に入れようとしますが、質屋は休業。結局、知り合いのウエイトレスから5ドルを借りるも、その場で失神してしまいます。気がつくと、アルコール依存専門の病棟に放り込まれていたドン。強迫観念に襲われてアパートに逃げ帰ったものの、そこで激しい幻覚に襲われ、ついには自殺を図ろうとします。結局、ヘレンの愛によってなんとか踏みとどまり、更生を誓うところで話は終わります。

改めてあらすじを辿ってみると、本作が『拾った女』の祖型の一部を成すことはやはり否定できない気がします。アルコール依存の描き方もさることながら、ヒロインの名前が同じヘレンですしね(そういえばどうでもいい話ですが、『拾った女』の35ページにも登場する電子楽器テルミンは、「観客に異常な緊張を与えるために」この映画で初めて本格的に使用されたんだそうです。まさに「ニューロティック」!)。

ただ上述の通り、この時期、同種のアルコール依存を扱った映画や小説は他にもたくさんあったわけで、たとえば、有名な映画作品としては、『喝采』(ジョージ・シートン監督、ビング・クロスビー主演、1954)や、『スタア誕生』(ジョージ・キューカー監督、ジュディ・ガーランド主演、1954)あたりが容易に想起されます。

『ハスラー』(原作:ウォルター・テヴィス、1959、映画版:ロバート・ロッセン監督、ポール・ニューマン主演、1961)は『拾った女』の後に発表された作品ですが、両作には驚くほど多くの類似点が見出されます。『ハスラー』の主人公もまた、「インテリだがアル中の大卒ヒロイン(病弱)」を「バスターミナル」でひっかけるんですが、このアル中どうしのダメな生活ぶりが、『拾った女』ときわめて近しい空気感なんですね(なお原作では二人は別れるだけですが、映画版のヒロインは終盤、自死するに至ります)。

で、この流れの行き着くところに、『酒とバラの日々』(ブレイク・エドワーズ監督、ジャック・レモン主演、1963)という、極めて恐ろしいアル中家庭崩壊映画があるわけです。未見の方にはぜひ一度ご覧いただきたいのですが、マジでビビりますよ。あまりに怖くて。ほとんどホラーの領域(笑)。なお、アルコール依存の程度がより重度で手に負えないのがヒロイン(リー・レミック)の方なのは、『拾った女』と共通した要素といえます。

このように、『拾った女』は、たしかに『失われた週末』直系の作品ではあるのですけれど、もっと大枠での「アルコール依存をニューロティックに扱った作品群」の一部を成すと考えたほうが、個人的にはしっくりくると思います。

 

さて、作品をとりまく時代的背景に関しては、ここまでで、なんとなくご理解いただけたのではないかと思います。

 

いよいよ次の記事からは、作品の読解をじっくり進めていくことにいたします!
さあ、お手元にある『拾った女』のページをめくってください!読み終えられたら、次の記事でお会いしましょう。
(編集Y)


 

2017年4月21日 04:51 | | コメント(0)

実は、今週末(4/22)に発表される第八回翻訳ミステリー大賞に、弊社のチャールズ・ウィルフォード著『拾った女』(浜野アキオ訳)がノミネートされております! すでに4/20締め切りで、本投票は行われたようですが......。

弊社といたしましては、昨年度から、このミスやら文春やら、いろいろな年間ベスト企画にお取り上げいただいたうえ、さらにこのような大きな賞にまでノミネートしていただけて、こんなに嬉しいことはございません。

あらためまして、『拾った女』を読んでいただき、望外の評価をくださった全ての皆様に、心からの感謝の言葉を贈りたいと思います。

 

一方で、去年は読み逃したけど、そこまで言うなら、せっかくだからこれを機に読んでみようかな、という方もいらっしゃるかもしれません(というか、いらっしゃるといいなあ)。

そこで、翻訳ミステリー大賞のブームアップも兼ねて、これから『拾った女』を読まれる方に向けて、改めて、本書の読みどころなどをご紹介してみようかな、というのが本稿の主旨でございます。

 

この原稿は、もともと昨年、都内有志の皆様が開いてくださった『拾った女』読書会に、編集者がお邪魔した折に持参した、読書会用レジュメを改稿したものです。

なので、読み物というよりは、箇条書きの項目の列挙、作品のご紹介というよりは、編集者が本書を読む際にたどった実際の思考の過程をトレースしたような内容になっておりますが、そのへんは平にご容赦ください。

 

それと、相変わらず書きすぎてしまって、ひとつの記事とするにはちょっと長すぎるので、四回ほどに分けて掲載する予定です。

では、お手元に『拾った女』をご準備くださいませ!

 


★1955年に書かれたミステリー

まずは、本書が発表された1955年およびその周辺に、他にどんなミステリーが出版されたのか、そのラインナップを改めて確認しておきましょう。

 

(おもな1955年発表作)
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』
マーガレット・ミラー 『狙った獣』
ヘレン・マクロイ The Long Body(翌年に『幽霊の2/3』、翌々年に『殺す者と殺される者』)
ビル・バリンジャー 『歯と爪』
セバスチャン・ジャプリゾ 『シンデレラの罠』
パトリック・クェンティン 『二人の妻をもつ男』
クリスティアナ・ブランド 『はなれわざ』
アステリア・マクリーン 『女王陛下のユリシーズ号』
フレドリック・ブラウン 『火星人ゴーホーム』

 

(ノワール、ハードボイルド系)
ジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』1952年(55年作は『アフター・ダーク』)
ミッキー・スピレーン『燃える接吻を』1952年
ロス・マクドナルド『象牙色の嘲笑』1952年
レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』1953年
デイヴィッド・グーディス『狼は天使の匂い』1954年
ハドリー・チェイス『ダイヤを抱いて地獄へ行け』1955年

 

ちなみに本格系ビッグ3の1955年作は、カー『喉切り隊長』、クリスティー『ヒッコリーロードの殺人』、クイーン『クイーン検事局』といった感じですね。

こうして見ると、ハードボイルドはジャンルとしてすでに完熟期に入り、のちにノワールと呼ばれる一群のクライム・ノヴェルが量産されていた時期にあたることがわかります。
一方、広義のミステリー界を見渡してみるなら、本格黄金期~新本格の勃興期を受けて、アメリカを中心に、新たなタイプの作家たちが新機軸の作品を次々と発表していた時期だといえるでしょう。
とくに、『狙った獣』、『歯と爪』、『シンデレラの罠』、『はなれわざ』といった一定の傾向をもつ作品群と、これから読んでいただく『拾った女』との同時代性は火を見るより明らかで、こうやって一覧で見ると、むしろ「時代性ってこういうことか」とびっくりするくらいですが、このへんは、また読み終わられてから話題として蒸し返すつもりです。

 


ノワールとは何か?

本書の帯に麗々しく打たれた「傑作ノワール」との惹句(まあ自分で書いたわけですが)。

この「ノワール」という呼称に、ピンと来ていない読者の方が意外と多いんだなあ、というのが、実は読書会に参加させていただいた際の率直な感想でした。

結局、皆さん、「ノワール」という呼び名で喚起されるイメージが、えらくまちまちなんですね。

編集者などは扶桑社の社員だからか、まずはやっぱりジム・トンプスンを想起するわけですが、ここでジェイムズ・エルロイのことを考える人もいれば、フランスのギャング映画を考える人もいる。香港ノワールを思い浮かべる人もいれば、馳星周が脳裏に浮かぶ人もいる......。そりゃそうですよね。正直、なかなか難しいなあと思います。

 

こういうイメージの多義性が生じるのは、「ノワール」という言葉が、必ずしも明快なジャンルを指すタームではなかったことが一因となっています。

もともと「ノワール」という単語は、フランス発祥の映画/小説用語です。第二次世界大戦中に製作されたアメリカ犯罪映画の一群を、戦後フランスで「フィルム・ノワール」と呼称したことに端を発し、一方、ほぼ同時期のフランスで、「セリ・ノワール」というアメリカ犯罪小説の翻訳をメインとするミステリー叢書(ガニマール社)が創刊され、人気を博しました。

こうしてフランス人によって規定された「ノワール」という概念が、のちに本国であるアメリカにも逆輸入されたのでした。

ただ、実際にアメリカで「ノワール」という単語が本格的に流布したのは、1980年代に入って、フィルム・ノワールのリヴァイヴァル上映と、「ブラック・リザード」叢書の刊行が始まってからだといわれています。ここで「ノワール作家」の筆頭とされたのが前出のジム・トンプスンであり、結局、「ジム・トンプスンみたいな犯罪小説」の源流をたどる中で、ノワールの概念はハメットまで遡及する形で固められていきました。

 

要するに、「ノワール」というのは、よその国経由で、しかも書かれて半世紀もしてから「再規定」されたジャンルなわけです。だから、今「ノワール作家」として扱われる当時の作家たちは、当然ながら、自分たちの書いている小説を「ノワール」だとは考えていなかった。彼らは、あくまで自分たちを、クライム・ノヴェルの作家だとしかとらえていなかったのです。

 

では、小説において「ノワール」という言葉は、具体的にどのようなタイプの作品を指すものなのでしょうか。いろいろな定義がありうるとは思うのですが、ここではハメット研究の権威でもある諏訪部浩一さんの『ノワール文学講義』の記述におおむね従って、ご紹介していきたいと思います。

一般に、ノワール小説は1930年代のアメリカで書かれるようになったとされます。従来「ハードボイルド小説」の先駆者といわれてきた、ダシール・ハメットやジェイムズ・M・ケインといった作家の作品が、ノワールの源流と認識されているわけですね。

諏訪部さんは、ノワール小説を、社会の閉塞性&主人公の性格的・道徳的破綻が重要な要素を成す犯罪小説、として規定しています。そのうえで、30年代の「初期ノワール」と、戦後ノワールとに分けて、その特性を説明されています。

 

(戦前)大恐慌後の社会の変化のなか、逃げ出そうとするが失敗し、破滅する悲劇
(代表作家)ダシール・ハメット、ジェイムズ・M・ケイン、ホレス・マッコイ

 

(戦後)「初期ノワールに強くあった社会批判的な意識が薄くなり、代わりに個人の内面、より限定的には異常な心理状態といったものに作品の焦点があわされていくことになった」(ノワール文学講義 p36)
(代表作家)ジム・トンプスン、デイヴィッド・グーディス、ライオネル・ホワイト

 

あるいは、主人公が立ち向かう相手であったはずの「社会」が、戦後の好景気で悲劇の母胎として機能しなくなったがゆえに、逆に悲劇の萌芽を主人公自身の「内なる闇」に見いだしていったのが、戦後ノワールの変遷だといってもいいのかもしれません。

そう考えると、『拾った女』ほどに、諏訪部さんのいう「戦後ノワール」の定義に当てはまる作品もないのではないかと思えてくるわけです。

 

 

ニューロティック・スリラーとの関係性

で、ここからは編集者の自説なのですが、ハードボイルド/ペーパーバック系のクライム・ノヴェルを源流とするノワールの展開を考える際には、もうひとつ、一般に「ニューロティック・スリラー」と呼称されるミステリー・ジャンルとの同時代性にももっと注目すべきではないか、と。

ニューロティック・スリラーは、いわゆる異常心理をテーマ(モチーフ)とする映画/ミステリーの総称であり、アメリカで40年代に盛んとなり、50年代にいくつかの大きな結実を見せたジャンルです。
映画では『白い恐怖』(アルフレッド・ヒッチコック、45)『暗い鏡』(ロバート・シオドマク、46)『イヴの三つの顔』(ナナリー・ジョンソン、57)あたりがぱっと想起されますし、ミステリーでは、マーガレット・ミラー、ジョン・フランクリン・バーディン、ヘレン・ユースティス等が代表作家にあげられるでしょうか。これらの作品群に共通するのは、

●戦争によるPTSDや、幼少時のトラウマによる「動機」の発生
●「精神分析」を積極的に取り入れた描写、キャラクター設定
●「信頼できない語り手」「信頼できない主人公」をプロットに活かす方向性

といった部分であり、いわゆる「どんでん返し」系ときわめて親和性が高いのもポイントのひとつです。上記の作家以外も、ヘレン・マクロイはほぼその系統といっていい作品をいくつかものしていますし(そもそも探偵役が精神分析医)、パトリシア・ハイスミスもニューロティックな要素はかなり強い。後年登場するリチャード・ニーリィという特殊作家もまた、この系譜の正統な直系に属しているといえます。

戦後のニューロティック・スリラー隆盛の背景には、アメリカにおけるフロイト精神分析の爆発的流行と、帰還兵たちの抱える心理的外傷の顕在化、サイコ・キラー犯罪の劇場化など、様々な要素が絡まっていると思われます。でも考えてみると、これらの要素って、まさに戦後期ノワールを特徴づけるものでもあるのではないでしょうか。

初期ノワールから戦後期ノワールに至って変質したとされる部分――「代わりに個人の内面、より限定的には異常な心理状態といったものに作品の焦点があわされていく」あたりは、まさにニューロティック・スリラーの「キモ」に他ならないのではないか?

むしろ戦後期ノワールは、ハードボイルド的潮流とニューロティック・スリラー的潮流の潮目に生まれたあだ花だったといえるのではないか?

そう考えつつ、1955年作品のリストを改めて見ると、『拾った女』という作品がこの年に生み出されたのは、まさに必然だったとも思えてくるのです。

それではこのへんで一旦切って、次の記事では、さらにいくつかの映画を引き合いに出しつつ、本作が同時代作品と共有するまた別の一要素について考えてみたいと思います。(編集Y)

2017年4月21日 04:28 | | コメント(0)

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