映画との関係性


当時の作家は、みなハリウッドと多かれ少なかれ関係を持っていました。当然、小説は映画の原作となりますし、逆に映画から小説へのフィードバックも大きかったはずです。ノワールのジャンル――犯罪映画と犯罪小説のあいだでも、その相関関係は変わらなかったのではないでしょうか。

実際、ウィルフォードやチャンドラー含め、この時代の作家のほとんどは、映画の現場でも大いに活躍していました。

ウィルフォードは、職業軍人として各地を転々としていた時期に、第二作である『拾った女』を執筆し出版しましたが、1956年に退役してからは小説家以外にも、プロボクサー、俳優、ラジオ・アナウンサーといった肩書をもって活動していたようです。1960年代には、『ヒッチコック・マガジン』の編集補佐の仕事もこなしていました(ちなみに、ちょうどこの頃はテレビ産業の成長期にもあたり、56年に創刊された『ヒッチコック・マガジン』にはその原作供給、脚本家発掘の機能もありました。ロアルド・ダールやジョン・コリアら「奇妙な味」短編の作家たちの活躍も50年代がピークで、彼らと映画/テレビ業界との結びつきは大変深いものです)。

後年、ウィルフォードは自作『コックファイター』(62)の映画化(モンテ・ヘルマン監督、プロデューサーはロジャー・コーマン、76)の脚本を書き、さらにはカメオ出演をはたしています。闘鶏ノワール(笑)ともいうべき味わい深い珍作でしたが、残念ながら興行的には大失敗に終わったようです。

このように、当時の作家の作品を語るうえで、映画との影響関係は看過できないものです。自分は50年代のノワール映画を網羅的に観ているわけではないので、ここではこれ以上深入りしませんが、作品を語る視座として、当時の小説と映画の距離感の近さはつねに念頭においておくべきことだろうと思っています。

 

 

アル中映画の系譜

『拾った女』に、ノワール的な要素とニューロティックな要素があることは、すでに確認したとおりです。ここからは、『拾った女』の「アル中小説」としての一面を、同時代作品との比較のなかで浮き彫りにしてみたいと思います。

戦後のアメリカでは、過度の飲酒によるアルコール依存が大きな社会問題となり、この時期制作された多くの小説や映画で題材とされました。もちろんモチーフとしてはフィッツジェラルド『夜はやさし』(1934、改訂版1951)など、昔からあったものですが、よりアルコールが病理的に、明快に身を蝕むドラッグとして扱われるようになったのです。

ノワールのジャンルでも、ハメット以来、「酔いどれ」、「飲んだくれ」、「酒浸り」はつねに中核的なモチーフであり続けました。たとえば、『拾った女』とほぼ同時期の作品である、ジム・トンプスン『失われた男』(1954)では、筋金入りのアル中が主人公として登場し、アルコール依存に由来するブラックアウトが、プロット上重要な意味を担っています。彼には、未訳ですが『The Alcoholics』(1953)というそのまんまのタイトルの小説もあります(ただし主人公はアル中の側ではなくて、アル中患者の収容クリニックの医者なのですが)。デイヴィッド・グーディスの小説に登場する主人公たちも、多くはアルコール依存の問題を抱えています。心にぽっかりと空いた闇を紛らわすために、彼らは酒をそこにつぎ込み続けるのです。

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当然ながら、『拾った女』もまた、そのコンテクストのなかに置かれるべき作品です。

 

『拾った女』の作品解釈をいざ具体的に始めようとするとき、先行作『失われた週末』(原作:チャールズ・ジャクスン、1944、映画:ビリー・ワイルダー監督、レイ・ミランド主演、1945)の存在を見逃すわけにはいきません。

原作は、帯に引用したウディ・ハウトの紹介文でも名を挙げられていた、元祖「アル中小説」。映画版も、アルコール依存を真正面から扱った映画としてはこれが初めての作品であり、さらには、前述した40年代「ニューロティック・フィルム」の代表作とも目されています。

主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は、33歳の売れない小説家で、重度のアルコール依存症。家族が出かけると、家中のカネを横取りして、なじみの酒場にかけつける毎日です。恋人のヘレンは3年前に知り合って以来、彼の酒癖をなんとか直そうとしてきましたが、虚しい努力に終わっています。ある日、酒に持ち金全てを使い尽くしたドンは、近所のレストランで隣の女のハンドバッグをくすねようとし、バレて店から放り出されます。その後、タイプライターを質に入れようとしますが、質屋は休業。結局、知り合いのウエイトレスから5ドルを借りるも、その場で失神してしまいます。気がつくと、アルコール依存専門の病棟に放り込まれていたドン。強迫観念に襲われてアパートに逃げ帰ったものの、そこで激しい幻覚に襲われ、ついには自殺を図ろうとします。結局、ヘレンの愛によってなんとか踏みとどまり、更生を誓うところで話は終わります。

改めてあらすじを辿ってみると、本作が『拾った女』の祖型の一部を成すことはやはり否定できない気がします。アルコール依存の描き方もさることながら、ヒロインの名前が同じヘレンですしね(そういえばどうでもいい話ですが、『拾った女』の35ページにも登場する電子楽器テルミンは、「観客に異常な緊張を与えるために」この映画で初めて本格的に使用されたんだそうです。まさに「ニューロティック」!)。

ただ上述の通り、この時期、同種のアルコール依存を扱った映画や小説は他にもたくさんあったわけで、たとえば、有名な映画作品としては、『喝采』(ジョージ・シートン監督、ビング・クロスビー主演、1954)や、『スタア誕生』(ジョージ・キューカー監督、ジュディ・ガーランド主演、1954)あたりが容易に想起されます。

『ハスラー』(原作:ウォルター・テヴィス、1959、映画版:ロバート・ロッセン監督、ポール・ニューマン主演、1961)は『拾った女』の後に発表された作品ですが、両作には驚くほど多くの類似点が見出されます。『ハスラー』の主人公もまた、「インテリだがアル中の大卒ヒロイン(病弱)」を「バスターミナル」でひっかけるんですが、このアル中どうしのダメな生活ぶりが、『拾った女』ときわめて近しい空気感なんですね(なお原作では二人は別れるだけですが、映画版のヒロインは終盤、自死するに至ります)。

で、この流れの行き着くところに、『酒とバラの日々』(ブレイク・エドワーズ監督、ジャック・レモン主演、1963)という、極めて恐ろしいアル中家庭崩壊映画があるわけです。未見の方にはぜひ一度ご覧いただきたいのですが、マジでビビりますよ。あまりに怖くて。ほとんどホラーの領域(笑)。なお、アルコール依存の程度がより重度で手に負えないのがヒロイン(リー・レミック)の方なのは、『拾った女』と共通した要素といえます。

このように、『拾った女』は、たしかに『失われた週末』直系の作品ではあるのですけれど、もっと大枠での「アルコール依存をニューロティックに扱った作品群」の一部を成すと考えたほうが、個人的にはしっくりくると思います。

 

さて、作品をとりまく時代的背景に関しては、ここまでで、なんとなくご理解いただけたのではないかと思います。

 

いよいよ次の記事からは、作品の読解をじっくり進めていくことにいたします!
さあ、お手元にある『拾った女』のページをめくってください!読み終えられたら、次の記事でお会いしましょう。
(編集Y)


 

2017年4月21日 04:51

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