★ 一応、『拾った女』の終盤までの展開が記述に含まれますので、できれば、読了後読んでいただければ幸いです。

 

『拾った女』は、文芸としての分類上は、間違いなく「ノワール」に位置づけられる作品だと思いますが、最後まで読むと犯罪小説(クライム・ノヴェル)と呼ぶにはいろいろ語弊があるし(笑)、広義のミステリーだと捉えたとしても、しょうじき正体のよくわからない、ヌエのような小説であることはたしかです。

その「得体の知れなさ」の中核には、書いている本人自体にジャンル感がないこともあるでしょうし、主人公カップルへの感情移入をうながすような語り口でありながら、当の両名が何を考えているのかさっぱりわからないということもあるでしょう。

結局のところ、詩作や主流文学、美学にも関わっていたインテリの軍人が、「ペーパーバック」というエンタメの枠組みを利用して、書きたい小説を書いたというのが正しいところなのだと思います。

 

彼の第一作である『High Priest of California』(1953)も、パルプっぽい書きっぷりではありますが、クライム・ノヴェルかといわれると悩ましいところ。

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中古車セールスマンの主人公ラッセルが、ダンスホールで知り合った女、アリスの部屋に押しかけ、「愛してる」とせまるのですが、彼女には精神疾患をわずらう年の離れた旦那がいました。ラッセルはこの夫を排除しようと、手を替え品を替え卑劣な策を弄します。この話のポイントは、犯罪スレスレの悪行三昧を積み重ねたあげく、ラストでようやく夫を精神病院送りにし、アリスに「あなたを愛してる」といわせたラッセルが、その時点でもはやアリスに対する興味の大半を喪っているあたりにあるのですが、この「壊れた」主人公像は、どこまでもノワール的だといえるでしょう。

「クライム・ノヴェルではないかもしれないが、純正のノワールである」第一作のありようは、そのまま本書『拾った女』にも引き継がれています。

 

★ノワール小説として

前にも述べたとおり、『拾った女』ほどに、諏訪部浩一さんの呈示する「戦後ノワール」の定義に当てはまる小説もありません。

一番のポイントは、本作において、どこか壊れた破滅型の主人公と、思いがけず「優しい」世界の対比という「逆転現象」が描かれている点でしょう。

多くの人は「ノワール」と聞くと、貧しさと世間のしがらみのなかで、もがき、苦しみながら、犯罪へと駆り立てられてゆく追い詰められたキャラクターを想起するかもしれません。しかし、それはむしろ戦前~戦中期に書かれた(撮られた)作品に顕著な傾向であって、戦後のノワールではむしろ、主人公の側が自らの心に闇を抱えているからこそ、世間からドロップアウトしてゆくわけです。

本作でも、主人公がもがき苦しんでいるというのは確かにそうなのですが、社会が彼に対して酷薄かというと、言うほどに厳しいようにはとても見えません。

主人公ハリーの周辺には、善良な人間がたくさんいて、誰もが彼のことを気にかけています。雇い主も、下宿の女将も、警官も、医師も、弁護士も、ハリーには明らかに好意的に接しています。過去の戦争を、彼は画家として安全にやり過ごしていますし、物語中に描き始めた絵にしても、誰に妨害されるでもなく普通に完成させています(ずっと後になって捨てられますが)。ヘレンにはちゃんと優秀な絵描きとして認められ、ボコボコにした相手には後から付きまとわれながらも結局見逃されます。明確にハリーの敵役としてでてくる兵隊やミセス・マシューズですら、話してみると実に物わかりがいい(笑)。後段の刑務所では、女は押し掛けてくるわ、世間的には時の人扱いだわ、ほとんどヒーローみたいな人気ぶりです。

この作品では、世間はむしろつねにハリーを受け入れよう、許そうとしている。少なくとも具体的な記述を読むかぎり、そうとしか読めない。

なのに、ハリーのほうがそれを素直に受け取らない。その理由はもちろんこの作品の大オチとも大いに関係があるわけですが、あのオチがあってなお、このお話のなかでやっていることが「おかしい」のは、どちらかといえば「世間」ではなく「ハリー」のほうなのでないか。

で、読者の側も、逆の現象(酷薄な世間と虐げられる主人公)を期待して読みすすめているから、だんだんとお腹の具合が悪いような、妙な気分になってくる(笑)。

一番、個人的にひっかかるのは、彼がせっかくありついた仕事を、何度となく簡単に辞めてしまう点ですね。いずれも雇い主はハリーのことを気に入っていて、べつだん辞めなくてもいいようなシチュエイションばかりなのに。死生観に関しても、恋愛観に関しても、ハリーというキャラクターには、どうにもとらえどころのない部分がある。善良ではあるが、どこかに壊れたものを抱えている。そして、この主人公の抱える「得体の知れなさ」が、物語を動かしていく動因になっている。

これぞ、ノワール。そう思いませんか?

ただ本作の場合、トンプスンやグーディスの描くキレッキレの主人公たちと違って、ハリーのキャラ造形に良識的で道徳的な側面が色濃く感じられるぶん、彼の「狂い」が「若干の違和感」「居心地の悪さ」という微温的なひっかかりにとどまっている。それは、ノワールとして本作が一般客に今ひとつアピールしない理由なのかもしれませんが、間違いなく作品の個性でもあり、魅力でもあるとも言えるのです。

 

ニューロティックな小説として

本作では、全編にわたって「精神分析」が関わってきます。

前に述べたとおり、戦後期はいよいよフロイト流の精神分析が人口に膾炙し、「人の隠された心」や「心と身体のかかわり」について関心が深まった時代でした。もともとキリスト教文化圏には「告解」の土壌があるぶん、精神分析医による施術を受け入れやすかったともいわれますが、ミステリーで「精神分析」モチーフが隆盛した背景としては、科学が大衆化する時代にあって、作家/読者の関心が次第に人間精神の機能的内面に向かっていったことも大きかったのでしょう。また、本格ミステリーなどでは、オカルトや心霊、超常現象といったモチーフが非科学的な子供だましのクリシェへと陳腐化してゆくなか、新味のある「得体の知れない謎めいた何か」として浮上してきた部分も大きいと思います。

ともあれ、「ノワール」という言葉に、「酒とカネと銃と犯罪」あたりを想起する人々にとって、本作でいきなり展開される長大な精神分析関連のイベントは、かなり唐突かつ妙ちきりんな内容に見えるのではないでしょうか。

最初の自殺の試みに失敗したあと、ヘレンは「あたしたちって先が全然、見通せない。必要なのは精神科のお医者さんの助けよ」(p99)と口にし、実際、二人は病院に足を運びます。第16章に入ると、留置所に入れられたハリーは、ふたたび精神分析医と対峙し、精神鑑定を延々とうけることになります。(「もちろん知ってるよ、病院だ、診察」p235)

しかし、こういった精神分析シーン、もしくは気軽に精神科医をあてにする登場人物の動きは、当時の小説全般において決して珍しいものではありませんでした。

ノワールにおいても、たとえば戦後ノワールの代表作ともいえるジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』では、精神分析が後半、重要な役割を果たします。比較的、唐突に主人公ルー・フォードが精神病院に移送され、とある奇妙なプログラムを強制されることになるのですが、このいかにも突拍子もない感じは、『拾った女』のそれと結構よく似ています(個人的に、『おれの中の殺し屋』の小説構造やモチーフの出し方は、アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』(1962)ともよく似ていると思いますが)。

前半戦で起きた様々な事象と、それを引き起こした主人公の内面を、後半に主人公が強要される精神分析によって客体化し、その結果として丸裸にされた主人公が何らかの変容(浄化?)を遂げる。この「煉獄めぐり」のような構造も、『おれの中の殺し屋』と『拾った女』の両作に通底した要素ではないかと思います。

 

★アート・ミステリーとして

本作は、芸術家くずれの男が、自らのアイデンティティを喪失し、ひとりの女との出逢いを通じて今一度の再生を図ろうとするも、結果として果たせずに終わる、やるせなく痛切な失敗の物語でもあります。

ここでも、周囲の人物はむしろ何かとハリーに便宜を図り、その腕前を褒めそやすのですが、ハリーのほうが、それを受け入れようとしません。彼自身のなかで(すでに物語が始まる前の段階で)何かが決定的に「折れて」いて、蝕まれた心は、最後まで自らの芸術的才能を認めることを拒絶しつづけるのです。

主人公の謎めいたキャラクターを語るうえでは、ヘレンの果たす役割以上に、実はこちら――芸術家としての挫折――のほうが重大な問題を孕んでいるともいえます。

作品中では、しきりに美術や芸術全般に関する言及が成されます。

彼がヘレンを描くときに彼女にとらせるポーズは、マネ「オランピア」のそれであり、他にもゴッホ、ゴーギャン、ジェイコブ・エプスタイン、パウル・クレーといったアーティストの名前が登場します(一箇所、眠るヘレンを前にしての幻視シーン(p186)で、ティツィアーノの名前が出てきますが、そもそも「オランピア」の構図はティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」に由来するもので、その祖型は「眠れるヴィーナス」と呼称されています)。

p107で注釈もなく出て来る引用句(「想像できないほどの昔から......」)は、オスカー・ワイルド『スフィンクス』冒頭から引いたものです(原書にも一切説明なく出て来るので、訳者さんと相談して、敢えて訳注などはつけませんでした)。

彼が留置所に収監されてからは、アートに関する話に過大なまでの記述が割かれます。抽象画家として身を立てようとしながら挫折するまでの過去回想や、抽象を志した人間であるがゆえに、「オランピア」を真似たヘレンの肖像画や、監房で描いた女性デッサンを卑下せざるを得ないあたりには、自らの限界を知った男の絶望がほの見えます。

ただ、どういう経緯でその絶望に至ったのかという一番肝心の部分が作中スルーされるので、我々はハリーという人物に近づけそうでいて近づけないわけです。

 

ウィルフォードは、自作で美術/芸術について言及することの多かった作家です。彼の代表作とも目される『炎に消えた名画(アート)』(1971)などは、まさに字義通りの「アート・ノワール」でした(しかも通例、美術ミステリーだと泰西名画の類が出てくるもんだと思うのですが、本作では、シュルレアリスムとダダイスムをつなぐ位置にあるというマニアックな幻の画家が登場しますw)。ウィルフォード自身、もともとは詩人志望でしたし、退役後にはフランスとペルーで、画家修行をしていたこともあります。彼にとってアートは常に大きな関心事であり、自作に取り込まずにはいられない題材でした。

ハリーというアカデミックな知性と審美眼を有する市井のフライ揚げ係は、こうして「ノワール」と「アート」を掛け合わせる不思議な営みのなかで生み出されたのでした。

 

★ハリーについてのよしなしごと

知的で紳士的でありながら、衝動的に離職、飲酒を繰り返し、周辺には思いがけないほど愛されるなか、自ら望んで堕ちてゆく。先に述べたとおり、ハリーは真の破滅型のキャラクターとして描かれており、それはヘレンと出会う「前から」そういう人間であったかのように思われます(その意味では、いかにもファム・ファタル譚めいた体裁をとりながら、本作は「まともな人間が女で身を持ち崩す」ファム・ファタル譚の定型からはかなりはずれた小説であると言わざるを得ません)。

彼につきまとう破滅衝動は、どこからもたらされたものなのか。当然、キャリアに挫折したことが彼にとって大きな心の傷となったと考えるのが自然でしょうが、そのへんについては肝心の部分がはっきりと語られない。そのため、ハリーという人間をどう捉えるかは、ひとえに、読者サイドの共感度にかかってくるわけです。

しかも本作は、ハリーの一人称で進行する物語であるにもかかわらず、彼の言動は必ずしも読者に対してフェアではない。

「ハリーに実は妻子がいた」という唐突な情報呈示(p258)に驚いた方は多かったかと思います(編集者ものけぞりました)。そうなんですね、彼は、ミステリー用語でいうところの、いわゆる「信頼できない語り部」なのです。

 

ハリーが必ずしも自らについて誠実に語っていないと考えるとき、気になってくるのが彼の女性観です。

たとえば、なぜ彼はかたくなに性交渉に関するカウンセリングを拒みつづけるのか(p266、p275)。本文中にはっきりとした記載はないので、結局は読み手が想像するしかないわけですが、ひとつのヒントとして、本書のなかで描かれる(ハリーの目から見た)ヘレンの描写には間違いなくある種の「偏り」があり、それは我々の心をざわつかせます。

 

「姿かたちは十代の娘のようだった」(p5)
「久しぶりだから。何年もしてないの」「あんたは小娘みたいだな」(p36)
「胸は小さく」「小さな乳首」(p41)
「もしそれがなければ、せいぜい十三歳くらいにしか見えなかっただろう」(p42)
「おしろいもつけないのか」「ええ口紅だけ」(p44)
「どちらかというと少女時代のあたしみたいだけど」(p66)
「実物よりずっと若いへレン」(p67)
「俺の目に映っているとおりのヘレン」(p68)

 

150cm、33歳、亭主持ちというexcuseの上で、徹底的に強調される処女性、少女性。しかも、ハリー本人が、このヘレン像が現実とは異なるある種の投影だと自覚しています。

なお、彼が捨ててきた実際の奥さんは「強く、知的で、有能」だとされ(p261)、彼は「これっぽっちも子どもを欲しいとは思わなかった」のに、彼女に「子供が出来た」のがひとつの理由で出奔したことになっています。

また、ハリーは、ヘレンを誘惑した労働者をボコボコにしていますし、ヘレンにキスをされた水兵に対しても、逆上して我を忘れて襲いかかっています。留置所では、自分に粉をかけてきたふしだらな女を、かなり有無を言わせず殴り倒しています。

もちろん、これらの言行を、単なる主人公の潔癖主義、モラリズム、ロマンティシズムがもたらしたものだと捉えても、この作品は普通に読めるはずです。それでも、主人公の「得体の知れなさ」を理解しようと、作中に隠されたヒントを探す読者にとっては、この「偏り」は気になるところかとも思うのです。

 

一方、ヘレンもまた死に取り憑かれた女であり、ハリー以上に破滅型の人間であることに間違いありません。ここでは深入りしませんが、彼女の母親の強烈なキャラクター、彼女が語るセルフヒストリー、不動産業者の旦那(年上でスーツ、品行方正)から逃げてきたエピソード(若干眉唾)などを考え合わせながら、なぜ彼女がここまで「こわれてしまった」のか、それが本当にアルコールだけに起因するものだったのかについて考えてみるのも一興でしょう。

 

本書には、他にもいろいろな読み方が存在するはずです。

ノワール版『同棲時代』――暗くせつない恋愛小説としてアプローチするのもよし(むしろ、それが一番普通の読み方なのかも)。

1950年代アメリカのパルプな風俗小説として読むもよし(店をハシゴしては食べて、呑んで、お金が尽きて、次が食べられるだけ働いて、食べて、呑んで、お金が尽きて......なんという貧乏たらしい無限ループw)。

ちなみに、編集者にとって、この話は、夜のサンフランシスコに始まり、雨のサンフランシスコで終わる、掛け値なしに悲惨でどこまでも闇色の、どうにも救いようのない「悲劇」だと思えてなりません。


何かそこまでの「悲劇」なのか、については最終回の記事で書きたいと思います。

 

それと、本作が「曲球(くせだま)」たる所以である、あのラスト2行についても。(編集Y)

 

2017年4月25日 23:09

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