★今回の記事では、作品の結末について言及しています。未読の方はくれぐれも閲覧をご遠慮いただき、必ず『拾った女』を読了してから目を通していただけると幸いです。

 

 

 


いよいよ、『拾った女』のラストについて。

こういうラストをもつ作品を担当するときいつも悩むのは、どこまで表紙まわりや事前宣伝で仕掛けの存在を明かしていいものか、ということでして。

そりゃあ、何も言わないのが、本当は一番なのです。

たとえ何も言わなくても、そういうことをよくやる作家だと周知されているだけで、もう警戒されてしまうくらいなんだから。もう、言わぬが花。沈黙は金。

読者だって、何も知らないほうがいいにきまってる。

でも一方で、そこが作品の大きな売りの一つなわけですから、送り出す側としては、何かしら触れないわけにもいかない。

今回の帯で若島正先生にいただいた推薦文は、そのあたりを読者の方にある程度「忖度」してもらえる、ギリギリのラインをうまく攻めて下さっていたのではないかと。

 

本書のラストに仕掛けられているフィニッシング・ストロークは、現代日本のミステリー・シーンにおいては、もはや古めかしいものかもしれません。

ただ、こういう仕掛けを成功させるために大切なのは、読者の虚を突くこと、予見させないこと、ジャンルを偽ることであるとするなら、本書は実にうまいスタンスで書かれた小説ではないかと思います。
そういうことをやる小説ではない、ノワールだ(もしくは恋愛譚だ)と思って読んでいた多くの皆様は、明後日の方向からぶっ飛ばされたような衝撃を存分に体験できたのではないでしょうか。

 

★類似作の存在

 

出版する前、実は編集者はまったく異なる予想を立てていました。

出した瞬間、四方八方から、「あの『××』とおんなじトリックじゃねえか!」と責め立てられるのではないかと思い込んでいたのです。

『××』とは、連載第一回の同時代リストにも名前のある作家による、かつて(少なくとも編集者が学生だった頃)は名作表やオールタイムベストにも結構載っていた某作品です。

しかも、小説としてノワールの体裁をとる点や、ラストで明かされる真相まで「まるで一緒」なので、さすがに突っ込まれても仕方ないのかな、と。

ただ、書かれた年は、『拾った女』のほうが2年も早く、影響関係は不明なまでも、こっちのほうが先行作であることはぜひ強調しておかないと、と思ったりしていました。

 

でも、蓋を開けてみれば、ネット書評やTwitterや読書メーターを見ても、ほとんどその件に関して言及されている方がいない。読書会にお邪魔した際も、どなたもご存じないとのこと(一名ご出席の某評論家先生を除く)。なんだか編集者が日々の本作りにかまけて時代に置いてきぼりにされているあいだに、あまり読まれない本になってしまっていたようなんですね。

まあ実際、いうほど面白い本じゃないんですけど、ぶっちゃけ(笑)。

 

むしろここで重要なのは、いま上で触れた某作品の著者が、そういう仕掛けばかり考えていた叙述トリック・プロパーのはしりみたいな作家であるのに対して、ウィルフォードのほうは、別段そればかりを狙っていた作家ではないということでしょう。

すなわち、本作はフィニッシング・ストローク「だけ」が目的の小説ではない。むしろこの大ネタは、テーマに見合った効果が期待されたから採用された、いうなれば「余録」みたいなものです。

あくまで本書は「ノワール」であり、ラストの技は、主人公の悲劇の真相を、最大限のインパクトをもって伝えるためにこそ供されている。そこの軽重を見誤ると、本書の本質をつかみそこねるのではないかと思います。

とはいえ、口コミの段階で「その手の小説らしいぞ」というバイアスはどうしてもかかってしまうわけで、実際には「綾辻行人さんや歌野晶午さんと比べるとどうも物足りなかった」とか言われちゃうんですけどね(笑)。正直、あんまりそことは比べないでほしいなあ。

 

あと、連載の一回目で触れたとおり、1950年代にはノワールの隆盛と平行して、ニューロティック・スリラーが盛んに書かれていました。このジャンルは異常心理を扱うだけに(主人公自体が問題を抱えていることも多い)、叙述トリックとの相性がすこぶる良く、(名前は挙げられませんが)いくつものどんでん返しもの、読者をひっかけるタイプの傑作ミステリーが生み出され、多くの作家がさらなる新奇なアイディアを競い合っていたのです。

『拾った女』や上記の類似作が、そういった出版状況下に執筆された作品である点は見逃せません。

 

 

(このあと、本当にネタのキモに触れざるを得ないので、未読の方がいらっしゃれば、ぜひ本のほうを先にお読みください)


 

 

★ウィルフォードの仕掛けた伏線

 

ウィルフォードは、この手の仕掛けに関してプロパーの作家ではないと書きました。

しかし、本書でネタを仕込んでゆくその手つきは、決して素人くさいものではありません。

ちょっと気にしながら読むだけでも、「二言三言、露骨に棘のある言葉で俺とヘレンをあてこすったが」(p56)の部分や、「この関係は、どちらにとってもよい方向に作用しない」というドクターの言葉(p133)、兵士とのいざこざで「似合いのカップルというわけだ」と言われるシーン(p171)、p192での水兵とのやりとりなど、あとから見ればそういうことだったのか、というシーンが頻出します。p133でドクターが放つミセス・メレディスについての質問も、何の話をしているかは、ラストを踏まえてようやく理解できるはずです。

もっとも目覚ましい、はっとさせられる伏線は、p192の第13章冒頭でハリーが見るピアノの夢でしょう。このタケモトピアノのような悪夢は、そのまま、本作のテーマと密接に結びつけられた明快きわまる隠喩となっているのです。

それから、先にアートに関連して言及したエドワール・マネの「オランピア」。この絵が敢えて取り上げられていることにも、実はちょっとした意味がありそうです。

先にも述べたとおり、ハリーはヘレンの肖像画を「オランピア」の構図を真似て描き始めるのですが、p67でヘレンが、描きかけの絵を見て「背景はどうするの?」と問います。ハリーはこれに対して「ほったらかしにしてある、重要じゃない」と答え、1ページにわたって二人は何を描くかについて押し問答をします。

結局、彼は何も描かずに絵を仕上げることになるのですが......では「オランピア」で本来背景に描かれていたのは、いったい何だったのでしょうか?(ぜひ、ご自身の目でお確かめください)。ここも、おそらくなら意図的に仕込まれたほのめかしだろうと思われます。

あとは、ディープ・リーディングのたぐいではありますが、p6でヒロインと最初に交わす会話が「ブラックにすべきだ」"and you need it black"だとか、p45で意味ありげに出てくる本が『アイヴァンホー』(またの名を『黒騎士(Black Knight)』とも言う)だといった小ネタも、ちょっとばかり気になるところです。


★黒人小説の系譜と『拾った女』の位置づけ

 

真相を知ってから読み返すと、いろいろと気になってくることもあります。

たとえば、この時代に本当にハリーのような画家は存在したのか? ネットで検索する限り、ホレス・ピピン(1888-1946)、アーロン・ダグラス(1899-1979)、ジェイコブ・ローレンス(1917-2000)といった画家がいたことがわかりますが、いずれもプリミティヴ・アートの系譜にあったらしい。現代アートの最前線で活躍した画家というのが、バスキアのアイドル化以前にはたして存在したのかどうか。

シカゴ・サウスサイド生まれで、シカゴ美術館附属学校を経て、ジョージア州で兵役し、ロサンジェルスのアートセンター・オブ・デザインという経歴の説得力についても、気になるところ。少なくとも、学校と兵役を行き来するキャリアは、ウィルフォード自身ともろにかぶります。

同時代に、類似のテーマを扱った作品があったかというと、先駆作としては、リチャード・ライトの『アメリカの息子』(1940)や、チェスター・ハイムズ(黒人初のノワール作家)の『喚き出したら放してやれ』(1945)などがあったようです。(諏訪部、前掲書p21)

重要なのは、ウィルフォードが『拾った女』の後、『Wild Wives』(1956)という作品をはさんで、『Honey Gal』(1958)という作品を書いていて、これがまさに『拾った女』の逆バージョンの話――白人が黒人社会に入りこんでいく設定の作品だったという点です。もともと彼はこれに『The Black Mass of Brother Springer』とつけようとしたのですが、出版社に断られ、それなら『Nigger Lover』にしたいといったらまた却下されたといいます(のちに『The Black Mass of Brother Springer』のタイトルで復刊されています)。

無神論者で白人の作家志望の会計士が、フロリダのジャクスンヴィルにある黒人教会でブラザーとなって活動することになり、そこで女と出会って......という話だそうで、本国ではブラウン対教育委員会裁判以降のアメリカ公民権運動を描いた、最も早い時期の小説のひとつとして評価されています。

すなわち、ウィルフォードは『拾った女』の結末を、一回こっきりのびっくりネタで書いたわけではなく、明快な社会意識とテーマ性に基づいて執筆したということになるのです。

 

この作品に続いて公民権のテーマを扱ったのが、奇妙な味の短編作家としても知られるチャールズ・ボーモント『The Intruder』(1959)という長編です。ここで彼は、人種統合が実現した高校から再び黒人生徒を排除しようと目論む白人のデマゴーグを描き、本作は1962年にロジャー・コーマン監督によって映画化されました(DVDの邦題は『侵入者』。主役の差別主義者をウィリアム・シャトナーが怪演しています)。
この流れは、もちろんながらジョン・ボール『夜の熱気の中で』(1965)や、その映画化『夜の大捜査線』ノーマン・ジュイスン監督、1967)へと続いていくわけですが、いずれにしても、『拾った女』は、白人作家が通俗小説のジャンル内で、黒人差別や人種統合の問題について触れた、ごく最初期の作品だったといってよさそうです。

 

そういえば、読書会に伺った際、「これがエルロイだったらハリーはもっとひどい目にあってる、本当に当時、黒人が白人と付き合って、こんな程度の扱いですんだんでしょうか?」との意見もありましたが、ウィルフォードはまさに50年代を生きていた作家なわけで、その目を通じて書かれた内容は、まあふつうに信用してもいいのかな、と思います。

あと、イベントで滝本誠さんが言っていたのですが、NYやサンフランシスコのような都市部だと、リベラルな白人層のあいだでは黒人と付き合うのが(あちらが凄いという風聞もあって)結構流行ってたという話もある、とのこと。公民権運動の視点から考えても、55年といえば、すでに上述のブラウン対教育委員会裁判の判決(学校における人種隔離廃止)がくだされたあとだし、マーチン・ルーサー・キングも活躍中で、一般大衆の間でも人種平等の概念はすでに流布していたはずです。

案外、『拾った女』で描かれるくらいの温度感――反発する人間もいれば気にしない人間もいる――が、当時のリアルな感覚であり、日常だったのではないでしょうか。

 


★裏シジフォスの物語

 

先に編集者は、本作のことを、救いも何もない「悲劇」だと述べました。

それはなぜかといえば、本作では、通常の「救済」が決して「救済」として機能しない皮肉な構造があるからです。

ハリーは、物語が始まる前から、すでに「死んだ」ような人間です。

すでに何かが取り返しのつかない形で喪われているせいで、いつ人生の終焉を迎えても構わない、と考えている。普段の生活はてきぱきこなすし、しごくまっとうな人間に見えるのですが、実際には心に闇を抱え、どこか刹那的で、常に死への傾斜に引き寄せられる、紛うことなき「破滅型」の人物です。

ハリーは、この小説を通じて、何を求めているのか。

彼は、滅びたがっているのです。

ハリーは、この小説を通じて、何を体験するのか。

彼は、破滅することに、失敗しつづけるのです。

 

一回目の心中に失敗し、入院しますが、更生に失敗し、断酒に失敗し、ヘレンを救済することに失敗します。

結果、もう一度心中をはかりますが、彼は再び失敗します。それは、単に本人が自殺に失敗して生き残ったというだけではありません。実際のところ、彼はヘレンを殺すことにも失敗しています。すなわち彼は、自ら紡ごうとした、「愛する女をみずからの手で葬る」というロマンティックな「破滅の物語」を成立させることにも、最後の最後で失敗したのです。

 

「俺は何もしなかったのだ! 自殺に失敗しただけじゃない。ヘレンを死に至らしめることさえできなかったのだ」(p311)

 

警察は彼を死刑にしてくれません。自罰の失敗。

シャバへの復帰。でもそこは、彼にとっての「自由の砂漠」です。

 

「俺はまたゆっくりと踏み段を下り、歩道に着くと左に折れてマーケット・ストリートに向かった。俺は自由の身だった。
 いや、ほんとうにそうなのか?」(p316)

 

死に損ないが雨の街を、行くあてもなく、独り歩み去ってゆくラストシーン。

とても静やかですが、どこまでも凄絶で、胸をむしられるような哀しみに彩られた幕切れだと思います。

 

彼が、破滅することに失敗しつづけ、永遠の劫罰を課せられたかのように、空っぽのまま「生き続けなければならない」。この酷薄な結末について、翻訳者の浜野さんが「シジフォスみたいですね」とおっしゃったことを覚えています。シジフォスはギリシャ神話に登場する、神を欺いたがゆえに永遠に岩を運び続ける罰を受けることになった人物です。

ハリーは、むしろ「罰を受ける」ことを望んている。何らかのロマンティックな最期を迎えることを求めている。しかし世間はそれを許さない。いや彼を「許してしまう」。そこに、彼の「悲劇」がある。
いわば、本作は「裏」シジフォスの物語なのです。


というわけで、長々とおつきあいいただき、ありがとうございました。

残念ながら、枕で触れた翻訳ミステリー大賞はけっきょく獲得できませんでしたが、皆様からの高いご評価を頂戴できただけでも、じゅうぶん嬉しく思っております。

願わくは、一人でも多くの人がこの素晴らしい作品を読んでくださいますように。

なので、読了して本作のことを気に入った、という方がいらっしゃったら......ぜひ、お友達にも「面白いよ」とおすすめくださいませ!

 

ただその際――くれぐれも「歌野晶午さんの『××』みたいな小説」ってのはご遠慮くださいね! ハードル無駄にあがるから(笑)(編集Y)

2017年4月27日 11:26

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