7月の扶桑社海外文庫は3作品を発表します。
そのなかのひとつがキム・オンス『野獣の血』。釜山の片隅・クアムという港町の裏社会を舞台にした小説です。2023年1月に日本でも公開された同名の韓国ノワール映画の原作ですので、ご存じのかたも多いかと思います。
今作は720ページの巨躯を持つ長編。おそらく扶桑社史上最厚です。しかしご安心を。一度読み始めるとぐいぐい引き込まれ、いつのまにか「このまま終わらないでほしい」と感じるようになること必至の、独特の作品世界がひろがる魅力たっぷりの小説です。
そこで今回は翻訳に携わった加来順子氏に本書の読みどころをご寄稿いただきました。
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これはヤクザが日々の糧を得る〈シノギ〉を巡る物語です。
カタギの代わりに手を汚す一攫千金のビッグチャンスが度々あるわけもなく、下っ端は食い扶持や身の安全を確保すべく、上から順になんだかんだと中抜きしようとするのを阻止したり、面倒なだけで実入りの少ない仕事から逃げたりするのに必死です。仁義もメンツも、腹がふくれてからのお話なのですね。
舞台は1990年代に盧泰愚がぶちあげた犯罪組織一掃政策《犯罪との戦争》のあおりを食らって揺れる釜山。主人公が中間幹部として仕切るクアムは、朝鮮戦争の避難民が立ち上げた巨大組織が陣取る影島(ヨンド)と海を挟んだ松島(ソンド)海水浴場あたりに設定された架空の港町です。大邱や大田などにも同音異義の地名があるのでご注意ください。
本書の地名や人名は、原則として、実在する(あるいは実在した)場合は漢字で、それ以外はカタカナで表記しています。
本書との出会いは、同じキム・オンスの長編小説『キャビネット』のあとがきを書くとき。付箋を貼ってメモをとりながら読み始めたのに、気がつくと何もかも放り出してのめり込んでいました。どう見ても陰鬱で悲惨なシーンにしれっと投入されたユーモアにうっかり笑い、あと一歩を踏ん切れない弱さやエゴに歯噛みしつつも「人間だもの」と納得し、ワンシーンにしか出てこない人物の人生までも、長年鍛えたテンポのいい端正な文章で克明に描ききる巧みさに唸りました(そして相変わらず食べ物が美味しそう!)。
早く先が知りたい、だけど読み終わりたくない――この気持ちを是非とも誰かと分かち合いたかったのですが、原語で読める人さえ「厚い血」(原題は『熱い血』)と躊躇う長さ。「じゃあ自分で訳すか」とのんびり構えていたところ、『鯨』(今年の国際ブッカー賞最終候補作)の原作者で脚本家出身のチョン・ミョングァンの監督で映画になると聞き、慌てて着手したのでした。
著者と監督は小説家として後輩と先輩に当たる親しい飲み仲間。酒の肴に語った思い出話がめっぽう面白いから何か書けとけしかけられ、小説が刊行されて映画化のオファーが来ると真っ先に打診したとのこと。これぞ任侠!ですね。
著者は生粋の釜山っ子です。ただし、かの地の方言には、イントネーションの違いだけで幾通りもの内容を話し分けるといった特徴があるため、セリフの部分は、地元の出身でなくても読んで理解できる程度に手が加えられています。
どの言語でも、方言で訳すべきか、さらにはどの方言で訳すかは非常に悩ましいところですが、本作に関しては、物語の雰囲気やリズム、登場人物のキャラクターを再現するためには避けて通れない、むしろそこがキモだろう、と判断しました。著者がわざわざ噛み砕いて書いてくれたものを、いわゆる共通語で均してしまうのは勿体ないと思ったのです。
訳出にあたっては、おかしみと凄みを同時に体現することばとして日本で広く認知されているだろう大阪弁を基調としました。ひとくちに〈大阪〉といっても実に広範囲かつ多様で、立場やシチュエーションによっても濃淡があります。しかも、耳が捉えたとおりに書くと目になじまない。「......これは詰んだかも」と何度も頭を抱えました。
私は著者と直接の面識はなく、単行本のあとがき、ネット記事、原出版社経由でやりとりした質問状から得た個人情報が知りうる全てです。インタビュー等ではさらりと語っているものの、なかなかの苦労人のようです。〈箸が転んでもおかしい〉という言い回しがありますが、著者独特の諧謔は、自ら箸を転がしてでも笑わせずにはいられない苦悩と絶望を知っている人のそれかもしれません。
ちなみに、本作にも『ウォーリーを探せ』のごとく著者の分身が紛れ込んでいます。ヒントは、今回、「えっと、そこまでは訊いてないです」という、極めて個人的かつセンシティブな回答があったこと。誰のことかは作品を読めばすぐにわかる、愛すべきキャラですよ。
「厚いのは面白いんです。(中略)厚い本は、その分量をひっぱるだけのストーリーの面白さがある」――北方謙三が直木賞の選考委員を辞した際に受けたインタビューの言葉は、まさにこの作品のためにあります。深奥なテーマや有意義な教訓を探すのはひとまずおいて、この壮大な物語にどっぷり浸って楽しんでいただければ幸いです。
2023年6月23日 15:33
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