スワガー・サーガをより深く楽しむための作品紹介と解説。
各巻の解説を、随時更新予定です。更新情報については、Twitter スワガー・サーガ 扶桑社公式アカウント などでお伝えしていきます。
本サイト内「スワガー・サーガの魅力」が総論的な内容となっております。お時間がある方は、是非、このページの先に「スワガー・サーガの魅力」 をお読みください。
「ボブ・リー・スワガーがアメリカ大統領を狙って撃ったのなら、大統領は死んでるはずよ、エルサルバドルの大司教じゃなくてね。ボブ・スワガーが誰かを狙って失敗し、別の人間を殺したですって? ボブ・リー・スワガーはね、生まれてこのかた狙ったものを外したことは一度もないわ。これは掛け値なしの真実よ」(上巻p290)
ヴェトナム戦争の英雄にして、最強のスナイパー、
海兵隊退役一等軍曹ボブ・リー・スワガー。
伝説のヒーローが初登場を果たした、輝けるシリーズ第一作です。
ここからすべては始まった。そう言ってもいいでしょう。
本作は『このミステリーがすごい!』2000年度海外編で見事、第一位を獲得しました。
関口苑生さんは本書解説で「ちょうど本書が刊行される少し前の時期から――1990年代の半ば以降になるが、冒険小説のブームは下火になっていた。それだけに、ハンターの存在はまさしく干天の慈雨であった」と書かれています。作品の質の高さと、時代的な渇望が合わさっての大ヒットだったということですね。
まあ当時、本書を出しておられたのは新潮社さんで、弊社はシリーズ第三作の『狩りのとき』を同じ年度で発刊しながら同15位と、それはもうものの見事に惨敗したのですけれど……正直、面白さはほとんど変わらないと思うんですが、第一作のほうに票が流れるのはさすがに致し方ないか。それとも、やっぱり会社のブランド力と販売力の差ですかね!?(投げやり)
……で、その後2013年になって、新潮社さんにもちゃんと仁義を切ったうえで、『極大射程』を改めて弊社のラインナップに加えさせていただいたという次第でございます。
今回、久しぶりに読み返してみたんですが……いやあボブ・リー若いわ!(笑)
だって、今より24歳も若いんですものね。そりゃ元気だ。
なんだかやたら走りまくってて、こっちまで漲ってくるんですけど!
それと、愛する妻の死という哀しみを背負って闘うニック・メンフィスが、カッコよすぎる!
あとあとこの人、けっこう便利で憎めない「合いの手キャラ」になっちゃうからなあ……。
とにかく本作には、アクション小説に皆さんが期待する「全て」がつまっています。
零落した伝説の英雄とその再起。
陰謀によるいわれなき汚名と逃亡劇。
反転攻勢に出てからの胸のすくような復讐劇。
百二十名の特殊部隊員相手に展開される壮絶な銃撃戦。
そして作品の独創性を担保するのは、圧倒的かつファナティックなまでの銃器への愛着です。
しかも、本作はボブ・リーのせつない恋の物語でもあり、同時に男と男の熱い友情を描いた究極のバディものでもあります。
『SHERLOCK』にはまれた人なら、ボブとニックの濃密な関係性はきっと大変なごほうびとなることでしょう。
スティーブン・ハンターは本書の成立の経緯を『ヒーローの作り方 ミステリ作家21人が明かす人気キャラクター誕生秘話』(早川書房)というエッセイのなかで、かなり赤裸々に記述しています。
最初にライフル・マンに関するプロットを二つ思いついていたこと(一つはとある英国小説からの盗作同然の内容で没にしたとあるが、そのプロットはのちに『デッド・ゼロ』冒頭でほぼそのままの形で採用されている)。
採用したほうのプロットの発想源は、当時発表されたケネディ暗殺事件の新仮説だったこと(この仮説の検証をさらに発展させてゆく形で、のちに『第三の銃弾』が生み出される)。
ボブ・リー・スワガーの元ネタが、実在する偉大なスナイパー、カルロス・ハスコックであること(彼を元にした別キャラ、カール・ヒッチコックがその後『蘇えるスナイパー』で重要な役割を果たす)。
そして、ボブ・リーのキャラクターにリアリティを与えるために色々と苦労したこと(そう言いながら、けっして映画『ランボー』(1982)に関しては言及しないあたりに、この作家のしたたかさが透けて見える)。
個人的に興味深かったのは、ボブ・リーを単なる勇敢な英雄に終わらせず、反感すら覚えさせるクセのある人物に仕上げるために、「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」タイ・カッブの要素を入れ込んだってくだりでしょうか。若くして非業の死を遂げた父と、父への妄執に突き動かされてしゃにむに努力する息子という、スワガー・サーガを貫く重大なテーマは、まさにタイ・カッブの生い立ちから移入されたものだったのですね。
そういった小難しいことは抜きにしても、とにかく『極大射程』は読み物として抜群に面白い。そこは、編集者が保証します。
全編にわたって、趣味のいい「けれん」というか、80年代アクション映画的感性の巧みな援用というか、ヒーローをヒーローとして描き出す手練手管のべらぼうなうまさが光っています。
我々は切り替わる視点のなかで、ありとあらゆる「カッコいいボブ・リー」を見ていくことになります。
あるときは、絶体絶命のピンチを打破してゆくボブ・リー本人に寄り添った形で。
あるときは、ボブ・リーと共闘する仲間による、賞賛と羨望に満ちた視点を通じて。
あるときは、いくらボブ・リーを追っても捕まえられない官憲サイドの動揺という形で。
あるときは、ボブ・リーに狩りたてられ、恐怖と焦燥に慄える悪党たちの立場から。
ハンターは『極大射程』のなかで、「苦難に立ち向かうダイ・ハード・ヒーロー」としての「英雄」ボブ・リーと、「神出鬼没の得体の知れないファントム」としての「怪人」ボブ・リーを、敵味方で視点を切り替えつつ、じつにバランス良く多元的に描写しているんですね。
こうして、ボブ・リーというキャラクターは三次元的な立体性を獲得し、最終的には描写されるすべてが、ボブ・リーのヤバいくらいの「カッコよさ」を強調することにつながっていくというわけです。
もし未読の方がいらっしゃったら、
騙されたと思って、ぜひ読んでみてください。
間違いなく……惚れますから。
ボブ・リーという男のなかの男に。
なお、本作は『ザ・シューター/極大射程』として、マーク・ウォールバーグ主演で2006年に映画化され、2016年からはウォールバーグの製作総指揮でTVシリーズ『ザ・シューター』もスタート(主演はライアン・フィリップ)。現在、セカンドシーズンが本国で絶賛放映中です。
映画版に関しては、こちらとしても若干コメントに困るところがありますが(ハンター自身かなり辛辣な物言いをしててちょっと笑う)、ドラマ版のほうは本国でもなかなかの評判をとっているようです(ただし設定からストーリーまで、かなりの改変が加えられています)。
日本でも、ファーストシーズンがネットフリックスさんから配信されておりますので、ご興味のある方はぜひそちらにも手を伸ばしてみていただければ。
思えば、編集者が最初に読んだスティーヴン・ハンター作品は、『ブラックライト』でした。邦訳は1998年初版ですから、まだ自分が入社一年目だった頃の話です。
とにかくもう、ばつぐんに面白かった。そんな記憶があります。
なにせ、重武装した10人組の殺し屋チームを大向こうにまわして、ボブ・リーひとりでばったばったと迎え撃っちゃうんですからね。
なんだよ、こいつ。ボブ・リー、かっこよすぎるよ。
物語は1955年7月、アーカンソー州の警察官アール・スワガーの朝の描写から始まります。この日は、旧知の悪童ジミー・パイが、90日の刑期を終えて刑務所から出所してくる日。後見人がわりのアールは途中まで迎えにいかねばなりません。でもその前にアールには片付けねばならない職務がありました。失踪した黒人少女を探しだすという調査依頼。果たして犬を用いた捜索で、彼は岩場の陰で変わり果てた姿と化した少女の他殺体を発見します……。
一方、現代パート。アリゾナ州の田舎で隠遁生活を送るボブ・リーの元に、ひとりの若者が訪ねてきます。男の名はラス。ジャーナリストの卵である彼は、相手にしてくれないボブ・リーに粘り強くつきまとった末、ついに接触を持つことに成功します。ラスの訪問理由はちょっと意外なものでした。「あなたの父親についての話が書きたい」。
ボブ・リーの父親アールはあの夏、出所後すぐ強盗殺人事件を引き起こしたジミーを追跡、相手と交戦ののち、ジミーともども命を落としていたのです。
最初は協力を固辞していたボブ・リーも、やがて重い腰をあげます。しかしそれは新たなる壮絶な死闘の始まりでもありました……。
『ブラックライト』(1996)は、『極大射程』(1993)につづくボブ・リー・スワガー・シリーズの第二弾です。と同時に、内容的には、『極大射程』の翌年に書かれた番外編『ダーティホワイトボーイズ』(1994)とも、深い繋がりがあります。
三作品の関係性は、下記のように年表風にまとめると一番わかりやすいかもしれません(年は作中時間)。
1955年 | ジミー・パイ、出所後に強盗事件を引き起こし、警察官アール・スワガーと銃撃戦を展開、ジミー&アール死亡 | 『ブラックライト』過去パート |
---|---|---|
1992年 | ボブ・リー、陰謀に巻き込まれ山中で大逃走劇を展開 | 『極大射程』 |
1994年 | ラマー・パイ脱獄、警察官バド・ピューティによって追跡、射殺 | 『ダーティホワイトボーイズ』 |
1996年 | ラス・ピューティがボブ・リーに、ノンフィクションの執筆協力を依頼 | 『ブラックライト』現代パート冒頭 |
すなわち、上記三作品には、三組の父子が登場します。
アール・スワガー(警察官、故人)とボブ・リー・スワガー。
ジミー・パイ(犯罪者)とラマー・パイ(犯罪者)。
バド・ピューティ(警察官)とラス・ピューティ(ジャーナリスト志望)。
このうちのラス・ピューティ(若造)が、ボブ・リー(初老)をなんとか説得して仲間に引き入れ、アールとジミーの絡んだ過去の殺人事件の真相を追ううちに、謎の敵から命を狙われて……というのが『ブラックライト』の大筋となります。
『ブラックライト』は、スワガー・サーガのなかでも特に重要な位置を占める作品です。なぜなら、シリーズの基本フォーマットはこの作品で概ね固められ、今にいたるまで引き継がれているからです。
片田舎で隠棲するボブ・リーのもとに依頼人が訪問→すげなく追い返される→再アタックの末ボブ・リーがしぶしぶ捜査に乗り出す→過去を探られたくない巨悪が刺客を放つ→ボブ・リー怒髪天→無敵のボブ・リー大無双、「さあ狩りのとき(タイム・トゥ・ハント)だ!」で返り討ち!……という黄金プロット(笑)は、本作をもって完成を見ます。
いわば、ハンターは「シリーズ」として同一ヒーローを主人公に展開できる「祖型」をここで手に入れたのです(この点で、「ボブ・リー自身の事件」である『極大射程』と『狩りのとき』の二作は、基本フォーマットからは外れた「異色作」ということになります)。
過去(父親の代)の「銃器をめぐる」事件を深く追及するうちに、いつしか現代において新たな銃撃戦が引き起こされるという展開も、『ブラックライト』以降固まったプロット立てといえるでしょう。
過去作の登場人物を再登場させ、各作品を地続きの「サーガ」へと編み込んでゆくシステムも、本作で常套化したもののひとつです。
たとえば、本作に登場する暗視スコープ「ブラックライト」。その起源は、ハンターのデビュー作『魔弾』(1980)に出て来る新型暗視装置「ヴァンピーレ」です。これについては、下巻18ページで「かつてのドイツは、強制収容所の捕虜をよく撃ったもんだ。そうやって、彼らは第一世代の暗視装置をテストした。われわれが撃つのは廃品になったトースターというわけだ」といったかたちで、直接的な言及が成されています。
また本作には、事件の背後ですべてを画策する謎のキーパースンが登場しますが、彼の初出はなんと、ハンターの第二作『クルドの暗殺者』(1982)に遡ります。ハンター世界の住人は、すべからく同じ世界観のなかで生きているんですね。
他にも、初老の男と若者の「師弟」コンビ、気骨のある老齢の協力者、武装勢力を相手にした敵中突破大作戦、終盤に用意されたスナイパー対スナイパーの息詰まる「決闘」……といった、「ウェスタン的クリシェの現代的活用」も本作で本格化した傾向といえるでしょう。
読者の意表をつくトリッキーな構成と、本格ミステリー的な謎解き要素の導入も、ハンターの作家性を特徴づける部分です。本作はたしかに「スナイプ・アクション」のカテゴリーに属するエンターテインメントではありますが、その小説としての「もっともらしさ」を支えているのは、びっくりするくらいよく出来た墓場での埋葬者探しのロジック(マジでシャーロック・ホームズみたい!)だったり、事件の真相に至るまでの思考過程構築の美しさだったりするのではないか、と。
それと概説でも少しふれましたが、ハンターには、その執筆活動を通じて、フォークナーに代表される「南部小説」の衣鉢を継ぐ意図があるように思えます。
「父と子」「善と悪の血脈」といった要素はまさにフォークナー的ですし、各作品を地続きにして「人物のドラマ」を「土地のドラマ」「時代のドラマ」へと変容させてゆく「サーガ」的発想も、両者に通底する部分です。実際、本書下巻の204ページには「フォークナーは、もしここで生まれてたら、もう一回ノーベル賞を受賞してたでしょうね。もちろん、そのまえに飲んだくれて死ななければの話だけど」というかたちで、彼に対する直接的な言及があります。
『ブラックライト』の中核にある「悪しき親戚筋に強制的に貰われていった実子が、悪に染まって帰ってくる」というアイディアの前例として、フォークナーの短編集『駒さばき』のなかに、ほぼ同内容の一編があるのも、個人的には興味深いところです。
さらには、本作で扱われている、黒人問題、レイプ問題、再犯問題、政治家と不逞勢力の癒着、といった一連の社会的テーマは、今もまったく古びていない現代アメリカの病巣そのものだといえます。『ブラックライト』で語られるアメリカの闇は、決して過去のものではありません。だからこそ、ハンターがリベラルと保守のはざまで模索する、ありうべき「アメリカの本当の正義」について、もう一度考えながら読み直してみるのも一興かと思うのです。
そして何より、本作はスナイプ・アクションを書かせれば随一の作家スティーヴン・ハンターの代表作。読んで面白くないわけがありません。未読の方も、既読の方も、ぜひこの圧倒的傑作を手にとってご堪能いただければ嬉しく思います。
『悪徳の都』は、ボブ・リー三部作につづいてハンターが発表した、アール三部作の第一弾に当たる作品です。
ギャングに支配される歓楽と腐敗の街ホット・スプリングズ。
地方検察官ベッカーは、その「浄化」に乗り出すべく、伝説のFBIエージェント、D・A・パーカーを中心とした、若い隊員による摘発部隊を結成。その教官に、退役してから酒浸りの毎日を送っていたアールをスカウトします。
アールは新人たちを二週間で鍛え上げ、最初のカジノ急襲作戦を大成功へと導きますが、やがて敵も対抗して凄腕の武装強盗団を呼び寄せることに。両者は知略・謀略の限りを尽くした凄絶な銃撃戦を展開することになって……。
アールは、出だしこそ沈鬱な太平洋戦争の回想に浸り、自分の父親や息子と同様、大量殺戮の昏い記憶に苛まれ、それをまぎらわすために酒の問題をかかえているわけですが、いざ「使命」を手にして戦いの場に赴いてからの彼は、ボブ・リーやチャールズ同様、無敵のかっこよさを発揮します。
以下は、後のラスベガス王バグジーとの初遭遇シーン。
バグジーが間近に身をのりだしてきて、
「おれは十七人、殺した」といいだした。「てめえは何人殺した、このどん百姓?」
「あー、三百ないし三百五十といったところかな」とアール。
バグジーがまじまじとみつめる。
「それと、ひとつ」アールが話をつづけた。「おもしろい点があってね。おれが殺した男たちは、おれを殺そうとしていたんだ。彼らは機関銃や戦車やライフルを持っていた。あんたが殺した男たちは、公園や車の後部座席にすわって、野球のことでも考えていたんだろうな」
そういうと、彼は小さくほほえんでみせた。(上巻115頁)
ね、かっこいいでしょ!(このあとアールは殴りかかってきたバグジーをカウンターでぶちのめし、上下巻に及ぶ生まずともよい因縁を発生させますw)とくに下巻の中盤以降は、胸のすくようなアールの大活躍を存分に楽しめますので、ぜひご期待ください。
---
本作と最新作『Gマン』とのあいだには、重要な関係性が存在します。
貴方がすでに『Gマン』を読み終えていて、かつまだ『悪徳の都』を読んでおられないとしたら、ぜひすぐに手にとって続けざまに読んでみてほしい。たとえ昔『悪徳の都』をすでに読んでいたとしても、この機会にぜひもう一度読み返してみてほしい。編集者は心からそう思います。
なぜなら、『Gマン』こそは『悪徳の都』の正当なる「続編」に当たる作品であり、両作は合わせ鏡のように、チャールズとアールという親子の真実の姿を、お互いに照射しあっているからです。
ざっくりと上のあらすじを見ていただいてもおわかりの通り、『Gマン』と『悪徳の都』とのあいだには、明快な物語構造の相似が見てとれます。
酒浸りの退役軍人が、その腕を買われて、ゴロツキを一掃するための新設チームを「訓練」させるべくスカウトされますが、その延長で自身もゴロツキとの死闘へと駆り立てられてゆく……。ね、そっくりでしょう?
他にも、スワガー本人とは別にチームにはリーダーがいて(『Gマン』のサム、本作のパーカー)、その人物との交情が任務達成のモチベーションとなるところ、最終盤、仲間の死によってスワガー無双の端緒が開かれる王道展開(健さんプロットですね)、有名犯罪者を作中で出したいがために時代設定を古くする作者サイドの仕掛け(『Gマン』のデリンジャー&ベイビーフェイス、本作のバグジー・シーゲル)、物語の底層に家庭の問題が流れているところ、などなど、『Gマン』が『悪徳の都』を「祖型」として執筆されたのは、およそ疑いようのないことのように思われます。
一方で、両作に登場するチャールズ・スワガーのイメージは、驚くほどに異なります。
『Gマン』のチャールズは、まさにスーパー・ヒーロー。ボブ・リーやアールと変わらない、スワガー家の血脈を体現する男のなかの男。正義の側に立つ無敵のガンマンです。
一方、『悪徳の都』で描かれるチャールズは、決して好感の持てる人物ではありません。息子たちに苛烈な体罰を加えてきた、飲んだくれのろくでなし。ホット・スプリングズ近郊の街で、何者かに撃たれて野垂れ死んだ老醜。作中でも、アールからは概ねけちょんけちょんのいわれようです。
『Gマン』の舞台となった1934年から、非業の死を遂げる1942年までの10年弱のあいだ(アールにとっては海兵隊に入ってこれから太平洋戦争に赴かんとする時期)に、チャールズにいったい何が起きたのか。
そこを埋めるのが、両作で描かれる二つの事件の顛末と結末であり、『悪徳の都』で予告され『Gマン』で確定される、チャールズのとある大きな「秘密」、というわけですね。
すなわちハンターは、かつてある種の「悪役」として作中に出したキャラクターの「善なる過去」と「転落の理由」を、「後から」作品化したうえでスワガー・サーガの正史に組み込んだ、ということになります。
そう……、『Gマン』は、スワガー・サーガにおける『スター・ウォーズ新三部作(プリクエル・トリロジー)』に当たる作品なのです!
こうして『Gマン』が書かれてしまった以上、われわれは『Gマン』で描かれた過去が「本当にあったこと」として『悪徳の都』を読み進める必要が出てきます(このあたりがフィクションを読む醍醐味でもあります)。
実際、『悪徳の都』はふつうに読んでも十分に楽しいアクション小説ですが、「ハンターがこのあとチャールズの物語を書くことになる」という事実を念頭に置きながらセットで読むと、これがもうめっぽう面白いんですね。なんといっても、相似形を成す「チャールズの物語」があとから加わったことで、『悪徳の都』は、アールが父親の過去の事績を「追体験」する物語へと「上書き」されてしまった。これは十分に再読するに値するポイントではないでしょうか。
アール・スワガーは、あれだけ自分の父親を憎んでいながらも、結果的に、父親が12年前に経験したのとそっくり同じようなギャング討伐戦を、あたかも父の後を追うように追体験し、皮肉にも「スワガーの血の宿命」なるものの存在を証明してしまった。少なくとも創造主であるハンターは『Gマン』を執筆することで、『悪徳の都』のことを「そういう物語である」と「再規定」してみせたわけです。
『悪徳の都』と『Gマン』。
ハンター自身が考える「スワガー・サーガ」の本質を理解するうえで、この二冊を読み比べることは、読者の皆さんに大きな示唆を与えてくれるはずです。
『四十七人目の男』は、日本人にとって、たしかにハードルの高い作品かもしれません。
敵のヤクザが自称・近藤勇で、そのボスが着物ポルノの大立者“ショーグン”で、美少女剣士と山ごもり特訓して突如サムライになったボブ・リーが、妖刀村正をめぐって大乱戦。辻斬りポイントが新宿花園神社横の遊歩道(確かにあそこは結構暗い)、ラストバトルの舞台は旧安田庭園(わかるけど微妙に地味なチョイス)! まあ、いろいろとどうかと思うわけですよ。
そりゃ誰しも言いたくなりますよね、「それ、どんな『キル・ビル』だよ」って。
でもね。
たぶん、この作品の本当の良さは、そこから入らないといけないと思うんです。
誰が読んでも思う『キル・ビル』っぽさ。そこを潔く認めるところから。
『キル・ビルVol.1』の公開が2003年ですから、献辞に邦画関係者の名前を何人並べようが(小林正樹、五社英雄、黒澤明……と続き、43人の名前が列挙される。上戸彩の名前もありますw)、あとがきでどう言おうが(『たそがれ清兵衛』に触発され、2年間日本のサムライ映画を見まくったと述懐)、『四十七人』の発想源の一角にタランティーノがあったことは否定できないでしょう。
というか、献辞に出てくる人々の映画だけを観てこんな話になるわけがないし、本当に日本人が何人も下読みしてくれた結果がこれだとすればなおさらです。まして、桜田さくらとか瀬戸由衣とかのAV作品を実際に観て「女神」とか言ってる人が、こんなゆがんだAV理解のはずがない。
要するに、この小説は、あからさまに『キル・ビル』みたいなデタラメさを目指して書かれている。ハンターは、本当の日本がこうじゃないことは重々承知のうえで、敢えてバカをやってるということです。
そしてそもそも、ハンターがそういう部分を持った作家、そういうことを面白がる作家なのだということ……これは否定できない要素だと思います。
『四十七人目の男』のファンキーな芸風というのは、その実、彼の持つ「素の部分」といってもいいものなのかもしれません。
これまで、一見まじめそうな顔でスワガー・サーガを書いてきたハンターですが、それは、ちょうどタランティーノが『レザボア・ドッグス』でデビューし、あるいは『レオン』までのリュック・ベッソンが思いきり猫をかぶっていたのと似ているともいえます。ハンターが根っこの部分で、B級大好きバカ大好きの愉快なオヤジであることは、なんとなく『極大射程』や『ブラックライト』のころからぷんぷん漂ってはいたではないですか。
その本性を本気で解放してみせた作品――タランティーノの『キル・ビル』やベッソンの『フィフスエレメント』にあたる作品――こそが、ハンターにとっての『四十七人目の男』なのではないでしょうか。
実際、この作品は、ばかばかしい、という一点をのぞけば、実によく組み立てられたまっとうな復讐譚であり、痛快無比のチャンバラ・アクションに仕上がっています。コミックテイストのスーパー・ヒーロー譚としての骨格は、これまでのスワガー・サーガから、いささかもぶれていません。
ただ、リアルなディテールと凝った文体で糊塗していた部分が、キッチュな肉付けに替わったというだけのこと。そして、欧米の人にとって、それはエンターテインメントにおける架空の「日本」の描写としては、むしろ“ふつう”の味付け。日本人にとって、アラブといえばラクダに族長、アマゾンといえばヤノマミ族というのと、そう変わらない。逆にハンターが細かい日本の風俗をやけに調べてリアリズムを付与したりしているぶん、“妙”な部分が強調されてるきらいもあります。
これを楽しめないようじゃあ、本当にハンターが好きだとはいえないのではないか。正直、そのくらい思います。
少なくとも、ハンター作品の芯の部分には、「ツッコミ待ち」のようなB級映画ぽさ、マンガっぽさがもともとある。それを日本という幻想の東洋において、いかんなく発揮してみせたのが、本作の魅力なのです。
ヒーローが日本でハメをはずすのは、007の昔からシュワちゃん、スタローンに至るまで、アクションの王道。それを楽しめてこその日本のファンってもんじゃありませんか。
ぜひ、気楽に鷹揚な姿勢で手にとって、おおらかな心で楽しんでいただければ、出版社として、これほどうれしいことはございません。
なお、2012年にNew Regencyがロバート・ケイメン脚本で本作を映画化するという仰天情報が飛び込んできて以来、その後の動向についてまったくなんの音沙汰もないんですが、どうしちゃったんでしょうか? やっぱりポシャっちゃったのかなあ。ポシャっちゃったんだろうなあ(笑)
ハンターは、『黄昏の狙撃手』のアイディアを、ナスカーレースを見ながら「あと足りないのはドンパチだ!」といった感じで思いついたといいます。
総論の方で述べたクリティーク出身作家の陣取り理論を踏まえて、もう少しあけすけに言えば、「あとオレがやってないのは……そう、カーチェイスだ!」みたいなノリで書かれた作品かもしれません。
スワガー・サーガとしての兼ね合いでいいますと、本作の悪役集団グラムリー一家は、『悪徳の都』において、ボブ・リーの父アールがホットスプリングズで対決した犯罪者集団の末裔です。ちなみに『Gマン 宿命の銃弾』でボブ・リーに絡んでくる二人組も、グラムリー一家のメンバー(一家のルーツはスコットランドにあるとされますが、詳細な情報に関しては、翻訳者の公手成幸さんによる本書あとがきをご参照ください)。
ハンターは、親子四代に至るスワガーの血脈を一方で描きつつ、悪の側にも「血脈」の要素を導入しているというわけです(他にもスワガー・サーガには、複数巻で悪役として登場する人物が何人かいますし、血縁のあるパターンもいくつか出てきます)。
こうして、カオティックな血族と正義の側に立ってきた人間が対比され、サーガとして作品をまたがって提示されるあり方は、どこかフォークナーのスノープス三部作を思わせるところもあります。そう考えると、ハンターは正しくアメリカ南部小説の伝統を引き継がんと志向する作家でもあるのです。
一方で、シネフィルとしてのハンターを考えたとき、本作はどのあたりの映画と通底する部分があるのか。
冒頭から編集者の脳裏をよぎったのは、クリント・イーストウッドの影でした。
老骨に鞭打って戦うヒーロー。車への愛着。ぼろぼろの被害女性。本作には、イーストウッド映画と共通するモチーフやエッセンスが散見されます。
とどめに上巻261ページで、「クリント・イーストウッド?」と問いかけられて、ボブが
「その男がそういう名であれば、わたしはその男ってことになるだろうね」
と答えるシーンが出てくるわけです。ああ我が意を得たり、やっぱりな、と。
その後も、真犯人の設定や中盤の水面下での対決、事件解決の端緒などは、『ダーティハリー』シリーズの某作品を容易に想起させますし、何より、本書のクライマックスは『ガントレット』の興奮そのまんまではないですか。
はたして執筆期間中に、ハンターが『グラン・トリノ』をどれくらい意識していたのかはタイミング的に微妙ですが、そもそも彼とイーストウッドには、作風・思想・政治信条上、一定の共通項があります。(ちなみに、ハンターはインタビューで自分はリベラルの側に立つ人間である旨を述べていますが、一方で『ヒーローの作り方』では「銃器への愛は、政治的立場としてのリベラルを自称して、ガン・カルチャーに惹かれる自分を抑えていた、七〇年代前半の迷いの時期をのぞけば、つねにわたしのなかにあった」といった言い方をしていて、なかなかに複雑なスタンスにあるようです)
ドグマに縛られない形での(本人なりに筋の通った)保守とリベラルのバランス。女性に対する(よくも悪くも)徹底された男根主義的把握。正義に対する絶対的確信と、作中の主人公に信じる正義を実行させるぶれのない姿勢。
何より、近づいてくる相手に対して決して警戒を緩めず、名声を求めず、孤独を愛し、孤立を恐れず、それでもいったん身内と認識した相手のためなら命を賭して闘うことも辞さない男としてのあり方が、ハンターとイーストウッドのヒーロー像では通底します。まさに「正しいアメリカ男性」の理想像がそこにはあるわけです。
ハンターが、老境にさしかかったボブというキャラクターをどう動かしてゆくかを考えるうえで、イーストウッドを想起するのは、むしろ当然のことではないかと思います。
イーストウッドに限らず、本作の背景には70~80年代風のガン・アクション/カー・アクションへのオマージュが散りばめられているといっていいでしょう。
旧三部作と若干テイストが異なるので困惑する向きもあるかもしれませんが、こぢんまりとまとまった軽量級のシルエットを見るかぎり、彼がそもそも本作では、旧三部作よりもっと気楽であっさりとしたアクションを目指しているのがよくわかります。
たしかにニッキは襲われますが、しょっぱなから「命に別状ない」「後遺症もない」とされていて、あまり導入に深刻味がありません。上巻で死ぬ人間自体ほとんどいないし、ラストの大仕掛けの犯罪も、スリリングというよりは、祝祭的、アトラクションめいた愉快さが勝っています。少なくとも本書においては、基本的に、さらっと読んで、楽しく本を閉じられる、そんな「佳品」をハンターは目指しているのでしょう。
そして70年代~80年代初頭には、そんな気楽で軽やかな、ガン・アクションとカーチェイスを主眼とする娯楽映画がわんさとあったのです。小規模予算で撮られたイーストウッドのアクション映画は、まさにその典型でした。
重厚なスナイパー・アクションとしての三部作を過度に意識してしまうと、どうしても小味、薄味といった感想はでてきてしまうと思います。ただ、ジャンルが違うと思って読んでいただければ、十分楽しめる作品だと思います。
重版分より、多大なご迷惑をおかけし、多くご指摘をいただいていた誤植の数々についても、概ね対応できたかと考えておりますので、ぜひこの機会にご購入いただければ幸いです。
原題は『I,Sniper』。
伝説のスナイパーとしてのボブ・リーの矜持と、
作中に登場する最新鋭スコープ、iSniper の掛け詞となっています。
ちなみに邦題について、なんで「蘇る」ではなくて「蘇える」かというと、編集者の大藪春彦リスペクトによるものです(本当)。
冒頭、四件の狙撃事件が発生。
被害者は、映画女優(某有名女優そのまんまのキャラです)、大学教授夫妻、コメディアン。
四人は、それぞれ凄腕のスナイパーによって急所を射抜かれて即死します。
捜査線上には、ヴェトナム戦争の伝説的スナイパー、カールが浮上しますが、
彼もまた自殺とおぼしき状況で発見。一件落着かと思われるなか、この経緯に何か納得できないものを感じたのが、あのFBI特別捜査官ニック・メンフィスでした。
そして、引退生活を送る老英雄ボブ・リー・スワガーの携帯に、捜査協力要請の一報が……。
あとがきで、解説の野崎六助さんが、
「長年のハンター愛読者として、折り紙をつけよう。これはベスト・オブ・ベストだ。シリーズの集大成というだけでなく、最高に突出している」と書いてくださっています。
おおお。すげえ。
マジか? と思われる方は、ぜひご一読あれ。
絶対損はさせません。
きっと、眉につけた唾は興奮の熱気で瞬間蒸発することでしょう。
なにせ、これこそは、まさに、読者がハンターに期待するところの、
「スナイパーVSスナイパー」小説なのですから!
少なくとも、ここにいるボブは、日本でチャンバラやってた、ちょっとオッドでファンクなボブではない。
正真正銘のプロフェッショナル。稀代の天才スナイパーがついに帰って来たのです。
実際アメリカでは、ハンター作品中、最も長くニューヨーク・タイムズ・ベストセラー・リストに残り、ハンターの新たなる代表作が登場した、といった捉え方がされました。
日本での売れ行きも近年の作品のなかでは抜群で、スワガー・サーガ中興の一作、といっていいと思います。
― ― ― ―
一方、「映画の人」ハンターという文脈でみたとき、本作はどの辺りに位置づけられる作品なのでしょうか。
先の総論では、ハンターのクリティーク&シネフィル出身作家としての立ち位置をあきらかにし、個別の解説では、『四十七人目の男』のタランティーノ的な側面と、『黄昏の狙撃手』のイーストウッド的な側面について考えてみました。
実は『蘇えるスナイパー』もまた、まさにそういった流れの中で必然的に登場した作品だといえます。
一見すると、ハンターは単純にボブ・リーを『極大射程』のころのスナイパー・アクションの世界に連れ戻しただけのようにも見えます。二作分じゅうぶん遊んだんだから、またライフルでも撃てよ、みんなそれを期待してるんだから、と。しかし、はたしてそれだけなのでしょうか。
個人的な意見をいえば、本作はスナイパー・アクションの皮をかぶったウエスタン――それも、フォードの正調ウエスタンではなく『ヴェラクルス』のテイスト、さらにいえば、イーストウッドに代表される70年代的なマカロニ・テイストを強く意識した作品です。
タランティーノでいえば、『キル・ビルVol.2』の世界観。現代ものの枠組みのなかで、ウエスタンの精神と破天荒な面白さを再現する試みです。
前二作における「チャンバラ」と「カー・アクション」を経て、ある意味アメリカ人作家にとって最大の霊感源ともいえる「ウエスタン」へと、ハンターのジャンル制圧の旅はたどり着いたというわけです。
そもそも思い返せば、たとえば『ダーティホワイトボーイズ』の物語上の枠組みだって、無法者を追う保安官というきわめてウエスタン・テイストのものでした。ボブ・リー初期三部作やアール三部作においても、そこかしこにウエスタンのガジェットは顔を出します(とくにアールものにはその傾向が顕著)。『黄昏の狙撃手』のラストなど、まさに本作の予告編といってもいい。
しかし、『蘇えるスナイパー』ほどむき出しに「西部劇」を意識し、実際のモチーフにまで取り込んだ例は初めてでしょう。
ネタバレになるので書きませんが、中盤以降のありとあらゆるシーン、アイディアに、名作ウエスタンから引っ張ってきた要素が散見されます。そして、ダメ押しのように続く西部劇そのまんまの決闘。
ああ、なんておもしろいんだろう。
なんてハンターは楽しそうなんだろう。
本当にこの人は西部劇が好きで、そのシリアスな部分も、おバカな部分もひっくるめてマジで愛しているんだなあ、と。
実際、ベトナム戦争もの(初期三部作)は多少まじめな顔をして語らないと不謹慎でしたが、今回は本質的に痛快ウエスタンなので、おもしろければそれでいいといったところもあるのかもしれません。
最初に殺されるのがどこからどうみてもジェーン・フォンダだったり、カール・ハスコックのかわりに出てくる人物がカール・ヒッチコックだったりと、基本的に作者が多少ふざけ気味なので、こちらもそのへんの距離感を酌んで読んであげるのが礼儀というものでしょう。
その愉快な娯楽体験のなかで、意外とまじめでまっとうな政治信条と、鋭い70年代文化人批判がうかがい知れるとしても、それはそれでうれしい余禄みたいなものだと思っていればいいのではないでしょうか。
「デッド・ゼロ」というのは、射程をあわせてどんぴしゃにターゲットに的中させることをさすスナイパー用語です。作中でも気の利いた決め台詞として使われているので、今回は、そのまま邦題としました。
ちなみに、日本語の副題は、最もよく知られた海兵隊のスナイパー標語から取っております(ONE SHOT,ONE KILL というやつですね)。
出だしはこんな感じです。
海兵隊きっての狙撃手レイ・クルーズが密命を帯びアフガンへ派遣された。
彼の任務は駐留アメリカ軍の悩みの種であるザルジという男を始末することだった。
西欧で高等教育を受けたザルジは人心の魅了者でありながら、タリバンやアルカイダの協力者という複雑な背景を持っていた。
クルーズは彼の本拠地へ向かうが、途中で正体不明の傭兵チームに襲われ同行した相棒を失う。
何とか単身ザルジの邸に接近し狙撃の用意にかかるクルーズだったが、そこでまた不測の事態に見舞われ……。
ハンターが、ついにアフガンを扱います。
そして、テロリズムを。
今の緊迫したイスラムと西欧世界の関係を考えれば、21世紀を生きるアクション作家としては、扱わざるを得ない領域といっていいでしょう。そこにハンターも遂に踏み込んだということです。
また発売当時はネタ自体が伏せ札だったので、一言たりとも宣伝することはできなかったのですが、新ヒーロー、レイ・クルーズの登場編ともなっています。
これから本書を読む方には、できればいろんな予備知識なしでぜひ読んでほしいなと思いますので、一応、これ以上は踏み込まないことにします。
ある意味、アクション小説としては、ハンター作品のなかでも、もっともオーソドックスでそれらしい内容に仕上がった力作だと思います。ボリュームも十分、ド派手で映像的なアクション・シーンが、これでもかとばかりに全編に詰め込まれています。
その分、ねちねちしたスナイパーの心理描写や銃器描写、過去と現在の交錯する複雑な構成といったハンターらしい要素は若干減退しているかもしれませんが、きわめてサーヴィス精神旺盛なエンターテインメントであることは間違いありません。
本書を片手に、最高にエキサイティングな時間をぜひお過ごしください!
(追記)
編集上の思い出っていうとやっぱり、原書(の少なくとも初版本)後半に存在する、壮大な規模の誤植(?)をどうするかって件で苦慮した点でしょうね……。
本書は、自分が編集者になって「ゲラの段階から」携われた最初のハンター作品でした。直担当の人間は別にいて、こちらは最後のチェックで「白焼き」と呼ばれる印刷直前のものを確認しただけだったのですが、下巻の部分を読まされてて、これは明らかに何かおかしいな、と(笑)。
『デッド・ゼロ』の後半では、ワシントンDCやヴァージニア州など、複数の場所で並行して物語が展開していくのですが、どう考えてもそのつながりに齟齬がある。それも一箇所二箇所の話ではない。とくに時系列が各章の頭に書いてあるんだけど、全体にわたってめちゃくちゃになってる。前に起きたことのはずなのに、後で起きたことになってたり……。原書を確認しても、その通り書いてある。ってことは誤訳じゃない。
なんでだ? どうしてこうなる?
しばらく考えた末に、わたくし、はっと気づきました。
ハンターさん、途中の「深夜(0時)」に発生した襲撃シーンを、途中から「正午」に起きた事件だとどえらい勘違いをしたまんま、続きの話を進めているんですね。
だから、とある都市での事件の進行だけが、12時間――半日他とズレてるんです。なにこのビル・S・バリンジャー仕様??
さすがにあせりました。
数日後から輪転機回すのに、このままでは出せないだろう、と。
結局、担当者や翻訳者さんと知恵を絞って、最低限の変更で時系列だけは通じるように修正。
なんとかぎりぎりのタイミングで間に合いました。
まあ、一部のシーンを夜から昼へとそっと変更しましたが、その程度はきっと許していただけることでしょう。
海外翻訳を担当していると、誤訳以前の問題として、原書からしてすでに間違っているという例はびっくりするくらいたくさんあります。特によくあるパターンとして、主要登場人物の名前が途中から変わるケースは本当に困りもの。当然こちらは「先に出てきた名前」で最後まで統一をかけるのですが、本国で続刊が出ると、まず間違いなく「後から出てきた間違った名前」のほうがデフォルトになっているという(笑)。まあホントにいろいろあるんですよ。編集人生、日々修行でございます。
感謝祭明けの金曜日(12月の頭の時期です)を、アメリカでは「ブラック・フライデー」と呼びます。
この日から年末商戦が全国でスタートして、店が黒字になるからブラック・フライデーというんですね。(ちなみに、英語でも「黒字」って、‘be in the black’っていいます。赤字は‘red’。簿記に由来する言葉なのです。)
最初、対面に座ってる同僚になんでブラックなのと聞かれて、適当に「さあ、店が黒山の人だかりだからじゃないの」って答えたら、「それはないですよ、だってアメリカ人の髪は別に黒くないから」って……たしかにっ、そりゃそうだ!
で、これ、なんの枕かと申しますと、本作のテロ事件が、まさにブラック・フライデーで混み合うミネソタ州のショッピング・モールで発生するんですね(ちなみに日本語版の発売もドンピシャでその年のブラック・フライデーの日に出版したのでした)。
ショッピング・モールといえば、まさに名作『ゾンビ』の舞台となって以降、アメリカの商業主義、資本主義、物質主義、あるいはパックス・アメリカーナの象徴ともいえるトポス。
そこをターゲットにする、ということは既存のアメリカという文明そのものを標的にする、ということにほかなりません(実際、過去には、ミズーリ州カンザスシティやウィスコンシン州ミルウォーキーのショッピング・モールで銃の乱射事件が起こっています(それぞれ2007年、2012年)。コロラド州デンヴァー郊外オーロラで起きた銃乱射事件(2012年)の舞台となった映画館も、巨大ショッピング・モールの一角にありました)。
今回、モールのセキュリティ・システムはテロリストに完全に乗っ取られ、モールの内外を結ぶ有線回路は全て遮断。連絡手段は携帯電話と無線機のみ。テロリストはイスラム系のソマリア人十数名。若い彼らは銃の乱射を楽しんだ後、殉教行動を唱えるリーダーの命令により買い物客を駆り集め、千人を超える人間を人質にとっています。
この困難な状況下で、たまたまフィアンセと買い物に来ていたレイ・クルーズは、スナイパーの血脈を受け継ぐ男として目の前の事態に対処することを決意し、行動を開始するのです。
……え? なんか、似た話をクリスマスに観たことがあるって?
かつて、自作の交響曲第一番の終楽章の旋律が、ベートーヴェンの「第九」に似ていると指摘されたブラームスは言いました。
「そんなこと、ロバだってわかる」
ハンターもきっとそう言うことでしょう。
読めば、わかります。
本作の真の狙いが。本歌取りの意図が。
読まないと、たぶん、わかりません。
(ちなみに本作が意図的に本歌取りとして作られたことは、ハンター自身がはっきり作中で示唆しており、『ダイ・ハード』の名前も決め台詞も、終盤にはっきりと出てきます。そういえば、『ダイ・ハード』第一作の舞台として登場する“ナカトミビル”も、本作に出てくるショッピングモールとは別の意味で、当時の世相を反映する重大な役割を担っていたのでした。)
ある意味、ハンター作品のなかでも、とりわけシンプルでひっかかりの少ない作品かもしれませんが、手に汗握る第一級の超面白エンタメ小説であることに変わりはありません。「読むアクション映画」だと割り切って読んでいただきさえすれば、決して皆さんに損はさせないはずです。
ただ後から振り返って考えると、結果的に本作は、ハンターが「映画的」小説の執筆にぐっと寄っていた時期の、最後を飾る作品になったともいえそうです。
ハンターは「主人公老齢化問題」に対するひとつの解決策として、「若返り」「代替わり」というアイディアをここで提示してみせたものの、結局のところ、次作以降、別の新たな方向性を見出すことになるからです。
ハンターが見出した新たな鉱脈とは何か。
それが、ボブ・リーを「銃探偵」と位置づけたうえでの、歴史ミステリ路線だったのです。
まずは、解説依頼にご快諾をくださった作家の深見真さんに、改めまして多大なる感謝を!
本書では、翻訳者さんとも相談して、「銃器愛」と「作家」の関係性をひとつの核とする本書の解説には、「銃器について本当に知る作家さん」に「銃器からみたボブ・リー・スワガーもの」の魅力を語ってほしいということに。そこで、かねてより愛読させていただいていた深見さんにお願いしたところ、素晴らしい解説をいただけたという次第です。本当にありがとうございました!
物語の出だしは、こんな感じです。
銃器やスナイパーに関した著作が多い作家アプタプトンが夜間の帰宅途中、車に轢きころされた。
警察は事故として処理したが、実際は車を使う殺人を専門にするプロのロシア人殺し屋による犯行だった。
しばらく後、被害者の妻がボブ・リー・スワガーのもとを訪れ、事件の調査を依頼する。彼女の夫は近いうちに、ケネディ大統領暗殺の真相を暴露する本を出版する予定だったという。
ボブは調査を引き受けダラスに飛んだ。そこで彼を待ち受けていたのは旧知のFBI特別捜査官ニック・メンフィスだった。ボブはFBIの覆面潜入捜査官に任命され、大統領暗殺現場の調査を開始する・・・・・・。
しょっぱなから、360度、どこからどう見てもスティーヴン・ハンターな作家が出てきて秒殺されるあたりから、もうテンションはマックス!
死ぬ間際に、作家が『別の本では刀を登場させたが、おおいに悔やまれる結果になっただけだった』とかいってて大爆笑ですが、アプタプトンの登場と退場は、単なる「枕」としての気の利いたジョークというわけではありません。
これは、虚実が入り乱れ、小説内世界と小説外世界がリンクし、ハンターという作家のレゾン・デートルに自ら深く切り込んでゆく本書の「ありよう」を高らかに宣言する、彼ならではの「読者への挑戦」なのです。
刊行時に出た書評を二つほど紹介すると、『週刊文春』の池上冬樹さんのミステリーレビューでは、
『今回は銃撃戦は少なく、さながら安楽椅子探偵の趣。「銃器の観点から、真相を見抜こうと思ってるんだ」という台詞にもあるように徹底してJFK暗殺の銃器・銃弾の謎を追及するのだが、これが新鮮で説得力がある』
とのお言葉をいただきました。
また、『週刊現代』の関口苑生さんの特選ミステリーでは、
『あくまでフィクションという枠組みで物語を展開させているのは百も承知なのだが、それにしてもこの"真相"は驚く。小説と事件、現実と虚構がこんな形で一体化するのもいい』
との高評価。本当にありがとうございました!
読みどころは、それこそ無数にありますが、あえて列挙すれば・・・・・
(1)世界で最も有名なスナイパーが、世界で最も有名な狙撃事件の謎を解明する!
(2)徹底した既存説の検討と、銃器・銃弾に関する専門的知識に立脚する精緻な新説の論証という「JFK」事件分析本としての面白さ!
(3)我らが老ヒーロー、ボブ・リーが歴史的事件に挑む、ハード・ボイルドタッチの調査・探偵小説としての読み応え!
(4)もちろんちゃんと出てくる終盤の大銃撃戦! ガン・アクション・ヒーローとしてのボブも健在!
(5)本書は「オズワルドに捧げる小説」でもあります。凡百のJFK本をはるかに凌駕する、キャラクターに対する徹底的な探求と、犯罪心理への切り込み!
(6)究極のピカレスク・ロマンとしての面白さ! いつしかあなたは、『JFK』から『ダラスの熱い日』へ、そして『ジャッカルの日』のごとき、極め付きの暗殺者たちの世界へ引きこまれているのです!
(7)ここですべてを明かすことはできませんが、本書は間違いなく、シリーズの第一作『極大射程』と密接なリンクを、内容面でも創作面でももっています。
『極大射程』を読まれた方にこそ、この作品はぜひ読んでいただきたい! 逆に、本書を手に取られて、まだ『極大射程』を読んでおられない方は、まずは第一作のほうをぜひ読んでみてほしいのです。
(8)これまでアクション作家でありながらも、ポリティカルな部分を敢えて強く打ち出さずにきたハンターの政治哲学、ひいては「銃器」に関する哲学が、初めて明快に示された作。
(9)コナリーやディーヴァー同様、アクションの世界で、つねに叙述上の大きな「仕掛け」を試してきたハンター。今回もご期待にたがわず、しっかり、かましてくれます!
(10)解説の深見さんが過たず指摘されているように、このところ、『映画の人』としての側面が強く出ていたハンターが、久々に『物書き』の部分を稼働させたのが本書だと思います。
究極の「JFK小説」にして、「ヒーロー小説」にして、「ダメ人間小説」にして、「ピカレスク・ロマン」にして、「アクション小説」――そして何より、圧倒的なまでに「銃器『小説』」――それが本書、『第三の銃弾』。傑作です! ぜひご一読あれ!
スワガー・サーガ以外のノン・シリーズ作品の解説についてはこちら
『極大射程』から遡ること13年。1980年に発刊された本書によって、ボルチモア・サン紙の記者スティーヴン・ハンターは、アクション・ライターとしての新たなキャリアを歩みだします(1982年からは同紙の映画欄を担当することとなり、シネマ・クリティークとしてのキャリアも始まります)。
彼が第一作の題材として選んだのは、第二次世界大戦末期のドイツを舞台とした、ナチス親衛隊による極秘計画の遂行作戦でした。
え、ナチス側が主人公なんだ? ちょっと思いがけない選択のようにも思えますが、当時冒険小説界では、ジャック・ヒギンズがチャーチル拉致作戦に挑むナチス・ドイツ落下傘部隊の冒険を描く『鷲は舞い降りた』(1975年、映画版1976年)でメガヒットを飛ばした余韻が、まだ残っていたはずです。
また、敵方のスナイパーが暗殺任務を背負って行動する姿を、それを追う味方の動向と合わせて描き出すという意味では、本作はフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(1971年、映画版1973年)を祖型にしているといっていいでしょう。『ジャッカルの日』では、ド・ゴール仏大統領暗殺計画を着々と進めてゆく殺し屋ジャッカルが、強烈な印象を残します。
1978年には、ケン・フォレットの『針の目』が出版されています。この作品の主人公もドイツ側のスパイで、ノルマンディー上陸作戦の秘密を本国に持ち帰るべく奮闘する姿が描かれています。冷酷非情な主人公のキャラクターや、ロマンス要素が後半重視される部分は『マスター・スナイパー』とも通底するところがあります。
ついでに言及しておくと、サム・ペキンパー監督(代表作に『ワイルド・バンチ』や『ガルシアの首』など)の傑作戦争映画『戦争のはらわた』は1977年制作。ドイツ軍の将兵を主人公に据えた本作についても、シネフィルであるハンターはもちろん知っていたことでしょう。
すなわち1970年代において、ジャンルとしてのアクション小説(映画)は、大戦終結から既に20年を経たこともあって、その表現領域を大幅に拡張させていました。獲得された多様性の一環として「敵方から戦争の惨禍を描く」試みもまたしきりとくり返されていたわけで、『マスター・スナイパー』はむしろそんな「時代の王道作」として巧みに企図されたアクションだったともいえそうです。
70年代のこうした傾向は、ベトナム戦争の泥沼化と厭戦感情とももちろん関わりがあり、そのあたりも含めて、作家ハンターの原点となっています。
────────────────
テーマ選択としては、時代のトレンドを目ざとくとらえてみせたハンター。一方で本作には、この著者ならではの個性と魅力がいっぱいに溢れかえっています。
〈スワガー・サーガ〉でハンターの面白さに目覚めた読者の皆さん、『マスター・スナイパー』は、決してあなたの期待を裏切りません。
というか、第一作から、ほぼほぼ彼の作家としての個人様式はすでに確立しているんですね。「デビュー作には作家のすべてが詰まっている」とは、ほんとよく言ったものだと思います。
まずはなんといっても、銃器に対する異様なこだわりと愛情。
とにかくこいつが、デビュー作からもうすでにほとばしってる(笑)。
細緻なディテールの描写や、ガン・アクションの熱い叙述はもちろんのこと、「銃器の本格推理」みたいなロジカルな考察と推論の積み重ねは、まさにハンターの真骨頂。後年何度も我々が唸らされてきた、ボブ・リーの「銃がたり」とも見事にオーヴァーラップします。
新兵器開発のリアリティ豊かな描写も、説得力十分な語り口に思わず引き込まれます。
それから「狙撃」に関する深い洞察と該博な知識。これもハンターのハンターたる所以です。途中登場するスナイピング・シーンも、圧巻の一言。
ナチス側の主人公レップが、東部戦線でロシア兵相手に髑髏師団のスナイパーとして無双するシーンが回想として出てくるんですが、これがもう鳥肌ものでして……。時計塔に立てこもったレップが、大量の敵兵を、ひとり、またひとりと撃ち倒していくんですけど、その数なんと345人!
1日で345人ですよ! ボブ・リーより凄まじいぜ(笑)。
また終盤にも、スナイパー対ガンマンの、手に汗握る対決が控えています。
文体もすでに完成されています。アクション小説にしては些か迂遠で文学的とも感じられる、息の長い語り口は、これぞハンター、といいたくなる絶妙の読み味。
「アクションと文学の融合」というハンターの意識が最も反映されているのは、収容所に捕らえられているユダヤ人作家シュムエルというキャラクターでしょう。彼は中盤、収容所について「文学」を書く、という行為について千々に思い悩みます。「これほど大きな悲劇から物語を紡ぎだす権利を持つ人間など、この世に存在するのだろうか? 著者の意図を無視して、刺激だけを求めてこうした描写を読もうとする心根の腐った連中は、どうすればいいのか?」(p387)。シュムエルの苦しみはまた、ハンター自身の煩悶でもあります。
ナチスの悪。収容所。ユダヤの民。戦争。
重くシリアスなテーマに正面から取り組み、自分なりの「文学」へと落とし込もうとする若きハンターの誠実なる奮闘ぶりは、その純粋さによって、読むわれわれの胸を強く打ちます。
でもね、この作品の本当の「キモ」にあたる部分は、おそらくそういった「大きな」構えにあるのではなく、あくまで使命を担って戦う男たちの生き様(死に様)にこそある。そうも思うんですよね。
何より重要なのは、本作が1945年を舞台にしている、ということです。
すなわち、このとき、もはや大戦の帰趨ははっきりしている。
ドイツは、戦争に負ける。イギリスとアメリカは、戦争に勝つ。
戦争は、もうすぐ終わる。
彼らがとくに何もしないでも、戦争は、もうすぐ勝手に終わってしまうのです。
本書の登場人物は、みなそのことをじゅうぶん理解しています。
理解したうえでなお、レップは文字通り命を懸けて困難な使命に挑み、米英の軍人もまた、レップを阻止すべく、命を懸けて追い続けるのです。
本書の終盤では、「戦後」として帰ってくる「民の日常」と、その渦中でなお「戦争を生きようとする」男たちとの対比が、これでもかとばかりに強調されます(異彩を放つテニス・シーンもまた、この文脈で理解すべきものでしょう)。
レップはひとりごちます。総統が亡くなって、親衛隊はどうなるのか、と。
わたしは期待を裏切らないと誓います。誓約の文句はそうはじまっていた。だが、そこで誓っている相手はアドルフ・ヒトラーだった。そのヒトラーが亡くなったいま、誓いの言葉にどんな意味があるというのか? それはたんなる言葉ではないのか? 誓った相手が死ぬと同時に、誓いも消滅するのでは?
そんなことはない、とレップは知っていた。(p407)
そこには、戦いの時代が終わってなお、戦い続ける(しかない)男たちの矜持と滅びを描き続けた前出の監督、サム・ペキンパーとも通底する美学が感じ取れます。
本書のなかで、終戦の瞬間が訪れたそのとき。
誰からも戦いを強要されなくなったそのとき・・・。
男たちの真の戦いは、幕を開けるのです。
作家ハンターのエッセンスが、初発の熱気とともにぎっしりと詰まった『マスター・スナイパー』。ぜひご一読ください。