著者の実質的デビュー作『魔弾』を原題どおりに改題した上で復刊。戦の目的は?スナイパーシリーズの金字塔的傑作ついに復活!
著者の実質的デビュー作『魔弾』を原題どおりに改題した上で復刊。第二次大戦末期、ドイツ敗戦の色濃くなる中、ナチス親衛隊は狙撃の名手(マスター・スナイパー)として知られるレップ中佐を実行者に「ニーベルンゲン作戦」を実行に移す。彼がターゲットとしているのは誰なのか? そして作戦の目的は? スナイパーシリーズの金字塔的傑作。
〈解説・関口苑生〉
スティーヴン・ハンターのデビュー作『マスター・スナイパー』を扶桑社ミステリーの担当編集者が語ります。
本サイト内「スワガー・サーガの魅力」ともつながりがございますので。お時間がある方は、是非、このページの先に「スワガー・サーガの魅力」 をお読みください。
『極大射程』から遡ること13年。1980年に発刊された本書によって、ボルチモア・サン紙の記者スティーヴン・ハンターは、アクション・ライターとしての新たなキャリアを歩みだします(1982年からは同紙の映画欄を担当することとなり、シネマ・クリティークとしてのキャリアも始まります)。
彼が第一作の題材として選んだのは、第二次世界大戦末期のドイツを舞台とした、ナチス親衛隊による極秘計画の遂行作戦でした。
え、ナチス側が主人公なんだ? ちょっと思いがけない選択のようにも思えますが、当時冒険小説界では、ジャック・ヒギンズがチャーチル拉致作戦に挑むナチス・ドイツ落下傘部隊の冒険を描く『鷲は舞い降りた』(1975年、映画版1976年)でメガヒットを飛ばした余韻が、まだ残っていたはずです。
また、敵方のスナイパーが暗殺任務を背負って行動する姿を、それを追う味方の動向と合わせて描き出すという意味では、本作はフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(1971年、映画版1973年)を祖型にしているといっていいでしょう。『ジャッカルの日』では、ド・ゴール仏大統領暗殺計画を着々と進めてゆく殺し屋ジャッカルが、強烈な印象を残します。
1978年には、ケン・フォレットの『針の目』が出版されています。この作品の主人公もドイツ側のスパイで、ノルマンディー上陸作戦の秘密を本国に持ち帰るべく奮闘する姿が描かれています。冷酷非情な主人公のキャラクターや、ロマンス要素が後半重視される部分は『マスター・スナイパー』とも通底するところがあります。
ついでに言及しておくと、サム・ペキンパー監督(代表作に『ワイルド・バンチ』や『ガルシアの首』など)の傑作戦争映画『戦争のはらわた』は1977年制作。ドイツ軍の将兵を主人公に据えた本作についても、シネフィルであるハンターはもちろん知っていたことでしょう。
すなわち1970年代において、ジャンルとしてのアクション小説(映画)は、大戦終結から既に20年を経たこともあって、その表現領域を大幅に拡張させていました。獲得された多様性の一環として「敵方から戦争の惨禍を描く」試みもまたしきりとくり返されていたわけで、『マスター・スナイパー』はむしろそんな「時代の王道作」として巧みに企図されたアクションだったともいえそうです。
70年代のこうした傾向は、ベトナム戦争の泥沼化と厭戦感情とももちろん関わりがあり、そのあたりも含めて、作家ハンターの原点となっています。
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テーマ選択としては、時代のトレンドを目ざとくとらえてみせたハンター。一方で本作には、この著者ならではの個性と魅力がいっぱいに溢れかえっています。
〈スワガー・サーガ〉でハンターの面白さに目覚めた読者の皆さん、『マスター・スナイパー』は、決してあなたの期待を裏切りません。
というか、第一作から、ほぼほぼ彼の作家としての個人様式はすでに確立しているんですね。「デビュー作には作家のすべてが詰まっている」とは、ほんとよく言ったものだと思います。
まずはなんといっても、銃器に対する異様なこだわりと愛情。
とにかくこいつが、デビュー作からもうすでにほとばしってる(笑)。
細緻なディテールの描写や、ガン・アクションの熱い叙述はもちろんのこと、「銃器の本格推理」みたいなロジカルな考察と推論の積み重ねは、まさにハンターの真骨頂。後年何度も我々が唸らされてきた、ボブ・リーの「銃がたり」とも見事にオーヴァーラップします。
新兵器開発のリアリティ豊かな描写も、説得力十分な語り口に思わず引き込まれます。
それから「狙撃」に関する深い洞察と該博な知識。これもハンターのハンターたる所以です。途中登場するスナイピング・シーンも、圧巻の一言。
ナチス側の主人公レップが、東部戦線でロシア兵相手に髑髏師団のスナイパーとして無双するシーンが回想として出てくるんですが、これがもう鳥肌ものでして……。時計塔に立てこもったレップが、大量の敵兵を、ひとり、またひとりと撃ち倒していくんですけど、その数なんと345人!
1日で345人ですよ! ボブ・リーより凄まじいぜ(笑)。
また終盤にも、スナイパー対ガンマンの、手に汗握る対決が控えています。
文体もすでに完成されています。アクション小説にしては些か迂遠で文学的とも感じられる、息の長い語り口は、これぞハンター、といいたくなる絶妙の読み味。
「アクションと文学の融合」というハンターの意識が最も反映されているのは、収容所に捕らえられているユダヤ人作家シュムエルというキャラクターでしょう。彼は中盤、収容所について「文学」を書く、という行為について千々に思い悩みます。「これほど大きな悲劇から物語を紡ぎだす権利を持つ人間など、この世に存在するのだろうか? 著者の意図を無視して、刺激だけを求めてこうした描写を読もうとする心根の腐った連中は、どうすればいいのか?」(p387)。シュムエルの苦しみはまた、ハンター自身の煩悶でもあります。
ナチスの悪。収容所。ユダヤの民。戦争。
重くシリアスなテーマに正面から取り組み、自分なりの「文学」へと落とし込もうとする若きハンターの誠実なる奮闘ぶりは、その純粋さによって、読むわれわれの胸を強く打ちます。
でもね、この作品の本当の「キモ」にあたる部分は、おそらくそういった「大きな」構えにあるのではなく、あくまで使命を担って戦う男たちの生き様(死に様)にこそある。そうも思うんですよね。
何より重要なのは、本作が1945年を舞台にしている、ということです。
すなわち、このとき、もはや大戦の帰趨ははっきりしている。
ドイツは、戦争に負ける。イギリスとアメリカは、戦争に勝つ。
戦争は、もうすぐ終わる。
彼らがとくに何もしないでも、戦争は、もうすぐ勝手に終わってしまうのです。
本書の登場人物は、みなそのことをじゅうぶん理解しています。
理解したうえでなお、レップは文字通り命を懸けて困難な使命に挑み、米英の軍人もまた、レップを阻止すべく、命を懸けて追い続けるのです。
本書の終盤では、「戦後」として帰ってくる「民の日常」と、その渦中でなお「戦争を生きようとする」男たちとの対比が、これでもかとばかりに強調されます(異彩を放つテニス・シーンもまた、この文脈で理解すべきものでしょう)。
レップはひとりごちます。総統が亡くなって、親衛隊はどうなるのか、と。
わたしは期待を裏切らないと誓います。誓約の文句はそうはじまっていた。だが、そこで誓っている相手はアドルフ・ヒトラーだった。そのヒトラーが亡くなったいま、誓いの言葉にどんな意味があるというのか? それはたんなる言葉ではないのか? 誓った相手が死ぬと同時に、誓いも消滅するのでは?
そんなことはない、とレップは知っていた。(p407)
そこには、戦いの時代が終わってなお、戦い続ける(しかない)男たちの矜持と滅びを描き続けた前出の監督、サム・ペキンパーとも通底する美学が感じ取れます。
本書のなかで、終戦の瞬間が訪れたそのとき。
誰からも戦いを強要されなくなったそのとき・・・。
男たちの真の戦いは、幕を開けるのです。
作家ハンターのエッセンスが、初発の熱気とともにぎっしりと詰まった『マスター・スナイパー』。ぜひご一読ください。